仮面の医師

 街の外れにあるこじんまりとした診療所。ここには毎日多くの患者が訪れる。彼らのお目当ては、一人でこの診療所を切り盛りしている青年医師だ。


 彼の名はレイク。弱冠じゃっかん二十六歳にしてすでに豊富な薬学の知識を持ち、ありとあらゆる病気や怪我に対応する治療薬を調合しては患者に処方している。その効き目は覿面てきめんで、どんな傷でも治せる名医として他の地方にも名を知られていた。鼻梁びりょうの高い顔に銀縁の眼鏡をかけ、痩身長躯そうしんちょうくを白衣に包んだその姿は見るからに理知的で、若いながらも医者としての貫禄を感じさせた。


 今、彼の前に座って注射を打たれているのは一人の老婆だ。夕食に使ったキノコに毒キノコが混ざっていたらしく、慌てて解毒剤を打ってもらいに来たのだ。老婆は痛みを堪えるようにぎゅっと目を瞑っている。

 レイクは注射を終えると素早く傷口をテーピングし、老婆に向かって優しく微笑みかけた。


「これでもう心配ありません。間もなく体内から毒素が抜けるはずです。ただ念のため、薬も一緒に出しておきましょう」


 レイクはそう言って立ち上がると、大量の薬瓶や薬草が陳列された薬品棚に向かった。棚を素早く見回し、茶色い薬草を手にして今度は作業台に向かう。手袋をはめ、慣れた手つきで薬草をすり潰し、じっくりと検分する。やがて納得したように頷くと、粉末を慎重に小瓶に移し、小瓶を片手に老婆の元へ戻ってきた。


「これは毒消し草を粉末化したものです。お湯で三十分ほど煎じてから毎食後に飲んでください。三日もすれば、体内に残った毒素が完全に抜けるはずです」


「ありがとうごぜえます、レイク先生。あんたはわしの命の恩人ですじゃ」


 老婆はさも有り難そうに両手で小瓶を受け取ると、レイクに向かってぺこぺこと何度も頭を下げた。


「大袈裟ですよ。僕はただ自分の仕事をしただけです」


 レイクはそう言って笑ったが、そこで老婆の後ろに新しい患者がいることに気づいた。青いおかっぱ頭に白のポンチョ姿。シリカだ。


「あ、ごめんなさい! レイク先生。薬草をもらいに来たんですけど、お邪魔でしたか?」シリカが慌てた様子で言った。


「いや、構わないよ。もう診療は終わったからね。ではヘーデルさん。後は家に帰って安静にしていてください」


「へぇ、何でも先生のおっしゃるとおりに致しますじゃ」


 ヘーデルと呼ばれた老婆はへこへこと頭を下げると、小瓶を宝物のように胸に抱えて診察室を出て行った。


「レイク先生ってば、相変わらずすごい人気ですね」シリカが顔を綻ばせた。

「朝から診療所の前に大勢人が並んでるの見ました。みんな先生のこと頼りにしてるんですね。」


「この街には医者が一人しかいないからね。みんな仕方なく僕のところに来ているだけだよ」


「そんなことないです。先生の診察はすごく丁寧で親切だって評判なんですよ。先生がミストヴィルにいてくれて良かったって、みんないつも言ってます」


「だといいけどね。それで? 薬草というのはやはり、霧青花ミスト・ブルームかい?」


「あ、そうなんです! よくわかりましたね?」


「またリビラのお使いなんだろう? 最近の彼女の噂を聞いていればわかるよ」


 レイクが呆れ顔で肩を竦めた。

 水晶魔術師といえども無尽蔵に力を使えるわけではない。魔力を回復させるには一定の時間がかかるが、賊との戦いの最中に力が枯渇すれば命取りになりかねない。だが、霧青花を使えば魔力を一瞬で最大値まで回復できるため、水晶魔術師の間では重宝されていた。


「近頃のリビラは魔力を使い過ぎだね」レイクが渋面じゅうめんを作った。

「彼女が困った人を放っておけない性分なのは知っているが、水晶魔術師は何でも屋じゃないんだ。街の人達も何かあるとすぐに彼女を頼ろうとする。少しは自分の手を使うことを覚えるべきだね」


「でも……それはお姉ちゃんが街の人に好かれてる証拠じゃないですか。自分の恋人が街の人気者になって、先生は嬉しくないんですか?」


「僕はリビラが心配なだけだよ。彼女はいつも自分のことを後回しにして他人のために奔走ほんそうしている。水晶魔術師になってからは賊の討伐も加わって休む暇もない。今は平気な顔をしているが、僕はいずれ彼女が倒れてしまうんじゃないかと思っているんだ」


 レイクはそう言ってため息をついた。そう、ミストヴィルの誇るこの若き医師は、同じくミストヴィルの希望であるリビラの恋人なのだ。






 二人の出会いは今から六年前にさかのぼる。レイクは十三歳の時に王都に移住し、そこで最新の医術を学んだ後、二十歳になった時に故郷であるミストヴィルへ戻ってきた。彼は自分の診療所を開設し、そこに患者としてリビラがやってきたのだ。


 当時、まだ氷結召喚を上手く使えなかったリビラは、賊との戦いで何度も痛手を負わされていた。レイクはその度に彼女の傷を治療し、彼女が目を覚ますまで傍らに寄り添っていた。

 そんなレイクの優しさにリビラは惹かれたのだろう。間もなく二人は交際するようになった。今から五年ほど前のことだ。


 聡明そうめいな青年医師と、勇敢な水晶魔術師の交際は街の人にも歓迎された。二人が連れ添って歩く姿を見るたび、街の人々は目を細めて呟いたものだ。本当にお似合いね。将来はきっと結婚するのでしょうね。あの二人に子どもができたら、さぞ優秀な子になるに違いないわ――。


 レイクが義兄になるかもしれないという想像は、シリカにとっても心地よいものだった。


 レイクはいつもシリカに優しく、氷結召喚に失敗してリビラに怒られた時などは、よく診療所に行って慰めてもらっていた。レイクはシリカの話を親身になって聞き、いつか君もリビラのような魔術師になれると励まし、ぽんぽんと頭を叩いてくれた。シリカはその度におまじないをかけられているような気分になり、不思議と気力が戻っていった。落ち込んでいる人を元気にするその力は魔法のようだとシリカは常々思っていた。


「霧青花は渡すけど、あまり使い過ぎないようにリビラに言っておいてくれ。薬草を集めるのも大変なんだ」


 レイクはそう言って薬品棚に向かうと、奥の方から数本の花を取り出した。葉のような形をした大ぶりの六つの花びらを広げた、鮮やかなブルーの花。これこそが水晶魔術師の力の源、霧青花ミスト・ブルームだ。


「わぁ……いつ見ても綺麗」シリカがうっとりと薬草を見つめた。

「確かこれって、満月の夜にしか咲かないんですよね?」


「あぁ、非常に貴重な薬草だ。本当ならこんなに頻繁に渡せるものじゃない。……まったく、リビラのわがままには困ったものだよ」


 レイクは肩を竦めた。だがシリカには、レイクの言葉が本心ではないことがわかっていた。リビラは水晶魔術師として、一人でも多くの人の役に立ちたいと思っている。レイクはそんな彼女の願いを叶えるために、普段からこの貴重な薬草を集めてくれているのだ。


「調合の方法はいつもの通りだ。もし上手くいかないようならすぐに言ってくれ。僕が家まで調合しに行こう」


「あ、それは大丈夫です! 私、調合は失敗したことないので。……魔法はいつも失敗するのに、おかしいですよね。」


 シリカは自嘲気味に笑った。

 シリカがレイクの下で薬草の調合を習い始めたのは半年ほど前のことだ。レイクが鮮やかな手つきでいくつもの薬を調合するのを見て、自分もやってみたいと思って始めたのがきっかけだったが、これが驚くほど上手くいった。シリカが作った回復薬をリビラが実際に使ったこともあり、リビラもまた妹の意外な才能に驚いていたようだった。このままレイクの下で薬剤師になった方が、よっぽどみんなの役に立つかもしれない――。そう考えたことは一度ではなかった。


「何、焦ることはないさ。君はまだ十七歳だろう? リビラが水晶魔術師になった時はすでに十八歳だったんだ。

 それに彼女だって、最初から氷結召喚を上手く使えていたわけじゃない。君には君のペースがある。努力を重ねていれば、必ず報われる時は来るさ」


 安心させるように微笑むレイクを見て、シリカも表情を綻ばせた。レイクにそう言われると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だった。


「それじゃあ、僕はまだ診察が残っているから。リビラによろしく言っておいてくれ」


「はい! ありがとうございました!」


 シリカは勢いよく頭を下げると、霧青花を胸に抱え、足取り軽く帰って行った。


 レイクは微笑みを浮かべたままシリカの姿を見送っていたが、扉が閉まり、彼女の姿が見えなくなると途端に笑みを引っ込めた。能面のようなその顔には暖かさの欠片もなく、シリカを慰めていた彼とは別人のようだ。


「リビラ……。君は昔から変わらないね」


 人気のなくなった診療所で、レイクは一人呟いた。


「君は自分に絶対的な自信を持ち、自分が正しいと思う道を突き進んでいる……。

 だが……君は気づいているのかな? 君が太陽のように輝けば輝くほど、周りの人間は影として生きるしかなくなることを……」


 診療所の窓にレイクの姿が映る。銀縁の眼鏡の奥に見える瞳は驚くほど冷ややかだった。とうの昔に捨て去ったはずの感情が、再び彼の中にうずき始めていた。


 初めてリビラに会った時に生じた感情――恋慕れんぼでも慈しみでもない、抗いがたい嫉妬心が。

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