【雅親視点】死がふたりを分かつまで。

「大丈夫すか?」


 目の前に、天使が降りたったのかと思った。大人っぽいがまだ10代に見えるそのは僕の頭をそのすべらかな膝に乗せ、心配そうに覗きこんでいる。黄金色こがねいろの髪を持ち、エプロンを身にまとったその天使は、そのふっくらと形のいいくちびるを不安そうに動かす。耳に添えられた数多あまたのピアスがきらきらと室内灯に反射して、それが僕には、彼女の尊さを体現しているもはや後光だった。


 思い返すと僕は恐らくその瞬間に、ちまたで『恋』と呼ばれるものにちていたのだろう。



***



 時は少しさかのぼる。

 僕はその日、大学で取り組んでいる研究がとどこおって三徹さんてつしていた。

(そう言えば、最近ろくにものをっていなかったな……)

  空腹を自覚し、手近にあったお弁当屋さんへふらふらと入る。初めて入るお店だった。というか、ここはどこだろう……?

 どうやら、意識が遠のきすぎて、本来とは別の駅で降りてしまったらしい。後で来た道を戻らなければ(そんなに歩いた気はしないし、携帯電話を使うまでもないだろう)。


 そのお弁当屋さんは小さいながらも清潔な雰囲気で、ちらりと視線を向けた先のほうにイートインスペースもあった。とりあえず注文を……とふらつきながらレジのほうへ向かったところで、脳がばつん、と強制シャットダウンされるような感覚。

「お客さん!?」

 きっと店員さんであろう女性のすごく驚いたような、凛々しい中にあどけなさも混じった声が、フェードアウトする意識の隅で響いたのが最後だった。



***



「大丈夫すか?」

 そして、冒頭へ戻る。

「あああ、すみません……! あのあの、僕最近ちょっと自己管理が甘かったといいますか……!!」

 咄嗟とっさに全てを理解した僕から飛び出したのは、なんとも頼りない声音こわねの謝罪だった。

 目をぐるぐる回しながら、彼女が座っていたソファのすぐ隣で正座をし、ぺしゃっと額をこすりつける。

「ちょ、ちょっと! あー……その……」

 困ったような天使の声がして、僕はパニック寸前になる。

 そんな僕の背中にふっと、あたたかなものが触れた。それが彼女の手だと悟るのに、そう時間はかからなかった。

 優しく、なだめるように。その手は僕の背中をでさする。

「大丈夫。大丈夫すから。とりあえず、なんか適当に用意しますんで、食べれます? お茶とかのが先かな……」

 天使じゃなかった。女神だった。


 僕はずぶずぶに、ちていた。



✿✿✿✿✿



「いや!! ひとつひとつが説明ましましのもりもりなんだけど?! 一体最後までどんだけかかるんだ、チカ!?」

「んー、とりあえずこのあと僕と里奈さんのお付き合い編で文庫本一冊くらい、結婚式でさらに一冊、初夜編になるとプラス三冊ほどですかね??」

「大長編じゃん!! 初夜ってそこまで書くことあったかな!? ちなみに読みあげようもんなら、ジャーマンスープレックスめてでも止めるからな!!」


 そして現在。

 小さなアパートで今日も元気に、無事、僕の妻となった里奈さんと僕のり取りが行なわれる。

 今日は最近書きあげた自作の僕×里奈さん小説を、里奈さんへ読みきかせている最中で、真っ赤なのか真っ青なのか複雑な顔色をした僕の奥さんが、両手を強く握りしめてふるふると震えていた。


「じゃあかいつまんでお話すると、その後僕はわざと食事を抜いては里奈さんの勤める店へ足を運び憐憫れんびんを誘うのはじょくち、里奈さんにまとわりつく羽虫は徹底的に駆除して――」

「たんまたんまたんまー!!」

「えっ? よくわからないけれど、さっきからぷるぷるしたりして、とめどなくかわいいです。抱きしめていいですか?」

「怒ったりのあまりだよ!! チカっ、だから会うたびいっつもフラフラだったんだな! あと羽虫がまとわりつくってなんだ!! 私が汚くて不潔だったみたいだろ! ちゃんと毎日お風呂に入って、今も昔もぴかぴかだっつーの!!」

「わー、マシンガンツッコミなのに真意はみとれていない里奈さん、やっぱりかわいい〜♡抱きしめますね♡♡」

「はーなーせーっ!!」

 貴女を狙う男はみんな、虫みたいなものですよ。僕も含めてね。

 さしずめ僕は、綺麗な蝶を手にし、甘くでる資格を得た、どこまでも幸運な蜘蛛というところかな?

 狡猾こうかつ雄蜘蛛おすぐもは、絡めとるように彼女の華奢な腰へ手を回し、その豊かな胸元へ、服越しに口づけてみせた。

「――絶対に、離しません♡」

 その声に微かな狂気が帯びたこと、僕に想われた運命の女性かわいそうなひとは恐らく、気づきもしていないだろう――。




【終】

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元ヤン妻とサイエンティスト夫。 コウサカチヅル @MEL-TUNE

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