第2話 突然の空白

 それではさっそく山羊を見せてくれるのだろうと思い、ぼくはどんな反応をしようかと思案した。

 驚き、喜び、を表すのがやはりスタンダードであると思う。それに対して、相手に伝える形で言葉を発するのは、やはり違うと思った。この場合やはり行動で示さなければならない。

 扉が開いて、それがオートロック式のものであるのがすぐに分かった。さすがは大きな金持ちの家だ。準備がいい。

「もしかしてだけど、一人暮らしっていうのも、君の気分が作り出した嘘であるなら、黒い山羊も本当は居ないなんてことは……」

「妥当な推理ね」

 彼女は髪を払ってそう言った。

「でも、残念。臆病で常識人な探偵さん。わたしは同じ相手に何度も嘘をつくほど暇じゃないの。ここに呼んだのは見てほしいからだよ。わたしの可愛いペットを」

 玄関前でぼくは立ちつくす。家の奥にはシンプルな針の時計が置いてあった。まさにスペースに余裕を持たせてある証拠に見えた。奥にいけばもっと色んなものがあるだろう。いや、それを探しに来たわけではないのだが。

「ちょっと待ってくれ。ぼくはなぜ黒い山羊なんて見ようとしているんだ」

「どうしたの、自問自答なんかして。そんなの流行ってないよ」

 別に手元にあるスマホで黒い山羊とか、ブラック・シープとかで検索すれば、画像とある程度の情報は出てくるはずだ。違う、シープは確か羊だった。山羊は英語で簡単には出てこない。

「ねぇ、いつまでそこにいるの。はやく中に入ろうよ」

「ああ、そうだな」

「返事したなら行動して」

「ごめん。それはできない。気になることがある」

 彼女は呆れたように靴を脱いで床に座りこむ。仰向けにカーペットの上で寝転がった。

「説明できるの? もうお腹空いたし、はやくお風呂に入りたいんだけど」

「ぼくは君が好きだ」

「はぁ? 人に好意を伝えるときは、ちゃんと手順があるでしょうが」

「だからこんな状況になった原因を説明しようとしているんだよ。まず、会話のできる相手から考えるのは、そんなに変な行いではないはずだ。ぼくは君が好き、だから君の後についてきた。言われるがまま君の家にも入ろうとしてる。しかしだね、ぼくは成りすましが趣味であるのだが、おそらくその趣味が高じて珍しい存在である黒い山羊に興味を惹かれたのだと思う。しかしそれが場所の問題であるのは、ほぼ間違いがないんだ」

「ねえ」と彼女が口を挟んだ。

「あなたを立ち止まらせるのが場所の問題であるなら、それは結局のところ移動してみないと始まらないんじゃないの」

「黒い山羊なんて、いないんだろ」

「さすがに怒るよ。わかった。今から持ってきて見せてあげるから」

 彼女はそう言って姿を消した。しばらく経ってから、ぼくの前に現れた。

 そばにはさっきと変わった様子はなく、その事実を受けても、ぼくはあまり落胆もしなかった。

「どういうわけか、山羊どころかお母さんまでいなくなっちゃった」

「それはもう事件だね」

「わたしを軽蔑してる?」

「いいや、ぜんぜん。君の不自然な明るさは完璧だったよ。事実を話せば、気分が沈みすぎてこれから先の人生までもが、過去に足を引っ張られてしまう。そんな予感があったのなら無意味な嘘をつくのは仕方がない」

「違う。嘘も沢山ついたけど、今回のは本当だったんだ。黒い山羊のことはわたしだってよく知らないけれど、お母さんはこんな夜遅くに家を出るような人じゃない。連絡もきてない。どうすればいい?」

 懇願する割には表情はさっきまでと変わりない。緊張感を欠いた頬の膨れた顔だった。

「どうすればいいって、探すしかないだろうね」

「でも、でもね、どこに行ったか見当もつかないの」

 彼女は飛び出して抱きついてきた。泣いているわけではない。力も弱く、投げやりだった。

「警察に連絡とか、そういうのも無意味なんだよ」

 どうしてそう言い切れるのか、とぼくは当然、疑問に思ったが黙った。他人の母親の失踪なんて、べつに真剣になれないのだ。彼女がそう言うのなら何か事情があってきっとそうなのだろう。

「待つしかない」

「うん。正解」と彼女は言った。「一緒に待ってくれる?」

「それは意味がないと思うけど」

「意味とかじゃなくて、わたしが不安だからだよ」

「不安な気持ちをそんな簡単に消してしまっていいのかな。君にとって母親は消えたら困る大切な人なんだから。それは、なんというか、結果的には心をすり減らすことになる気がする」

 すると彼女は、ぼくの肩を何度か叩いた。暴力でしか今の自分が置かれた状況を表現できないとは、同情する思いに駆られたが、たいして痛くもなかったので、もっと強く殴れとなんとなしに思った。

「自惚れてる。あなたと一緒にいたくらいで不安がなくなるなんて考えがあるわけじゃない」

「それじゃあいったいどうして?」

「いいから、それはまた今度にしよう」

「……わかった。女の子の家に泊まれる機会なんてそうそうないしね。珍しい体験をぼくは享受する」

「そうだよ。その感じ」

 その日の夜は、ぼくは知らない家のリビングで寝る羽目になった。明日の朝には、きちんと起きて、お互いの名前を公開しようという約束をした。ぼくは横になって目を閉じながら、どんな名前にしようかと頭を抱えるのだった。

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黒い山羊 @franc33

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