黒い山羊
萩
第1話 山羊を飼う人
彼女の飼っている動物は何かと尋ねて—―それが山羊だということを知ったとき、元々ぼくは彼女に好意を抱いていたのだけれど、それは運命的な逃れがたいものに変わっていった。
――きみは新宿に住んでいるんだよね?
ぼくは知っていることを話した。
――もちろん。わたしは一人暮らしで、それに山羊を飼っているの。それにその山羊は石のようにね、真っ黒なんだ。
――すばらしいセンスだと思う
――好きで飼ってない
彼女は酒を飲んでいた。
――この店、ちょっと汚すぎないかしら。中にいるだけで、ゲロみたいな顔になりそう
こんな話しかたをする女性はいない、というのがぼくの偏見だったので、その相手の異様さを壊さないようにした。ぼくは彼女の下僕になりたかった。彼女はもう何杯もお酒を飲んでいるのに、顔はまるで赤くならずに、むしろ青ざめていた。不健康の象徴のような顔をしている。時おり見せる表情はだれよりも偽ものだった。まるで自分はコピーであると知っている、捻くれたクローン人間のように、ほくそ笑みばかりを見せた。
――大好きだよ。大好きだよ。
とぼくは馬鹿みたいになった。それ以外の感情の伝え方をしらなかった。
――どれくらい好きなの?
彼女は長い脚をのばして、軽蔑するような視線で言った。
――きみの望むことなら何だってできる。その結果は運にまかせるとしても。
――やるだけならば誰でも出来るものね
ぼくは気分を鎮めるために辺りを見回した。そうはいっても、この店には見知った顔しか居なかった。いつも笑ってる花柄の服のババアと、太りすぎて尻が椅子に埋まってしまうような元軍人。いつも独りごとを言っているくせ毛な女の子。いつも同じ料理(たいして上手くもないソーススパゲッティなのだが)それを頼んで、音を立てながら食べる男しか居なかった。
うんざりしていた。そんなときに、偶然とおりかかった彼女に出会った。一目でぼくは好きになった。彼女は短いデニムパンツを履いているのに目が空っぽだった。
ぼくはお店といえばここしか知らなかったので、彼女に嫌われるために誘ってみた。しかし彼女はイエスともノオとも言わずに、ぼくに言った。
――後悔することになる
――それでもいい
――迷いなさいよ
――ぼくの人生は迷えなかった
――あなたは目が腐ってる
――知ってる。生れつきそうなんだ!
彼女は点滅している明かりを見つめていた。店のなかにある大半の電灯は消えていた。店主はそれを取りかえる気もないようだった。そのために席のテーブルにはそれぞれロウソクの火が灯っている。
ぼくは山に乗った雲を見つめるみたいに、ゆっくりと瞬きをした。
――あと少しだったのに! と彼女は叫んだ。
そして店に出ようと、彼女が言わないでも、ぼくは外に出たほうが良い気がした。彼女を知った後ではもう昔のじぶんには戻れなかった。ぼくは子供みたいに言った。
――人に舐められないようにするよ。君を知ったから。
――それじゃあわたしと一緒にいては駄目ね
ぎょろりとした大きな目を動かしていた。彼女は叩いて殺す、小さな虫を捜しているように見えた。それはぼくの勘ぐりだったかもしれない。だって殺傷なんて起こしたことないような傷ひとつない、綺麗な手だったから。
彼女は急に嗚咽と共に泣きはじめた。
――体重がないの
――それの何がいけない? そうぼくは心なく言った。
――たまにベッドの上で、さびしくてどうしようもないとき、わたしが何をしているのか当ててよ
彼女は訴えるように話した。それを見たぼくは自分の経験を言うことしかできなかった。しかしそれに対応する、てきせつな言葉や態度を知らなかった。
――枕を体のうえに乗せてそれを人間だと思って感じる。温かい布団では足りないから
――でも実際の人の体がぼくの上に乗るのは嫌だ
その後に彼女は何かを言ったが、ぼくは聞いていなかった。きっと聞いていなくてもいいようなことを話していたのだろう。気がつくと僕も彼女も道路に跪いて、口の中に雨が入ってきて、髪の毛はびっしょりと濡れていた。
ぼくは這うようにして自分の住んでいる場所へと戻ろうとした。その道中に彼女は言った。
――ここ、わたしの家だよ。
ぼくは振り返って、乞食みたいな顔をした。
――凄いじゃん。褒めてあげるよ。
彼女はそう言って酔いが覚めたように体を動かしはじめた。ぼくは立ちどまって、その家を見た。金持ちだと思った。とてもじゃないけれど、この家のなかに黒い山羊がいるとは思えなかった。それは完全にぼくの想像力を超えていた。そうして困惑していると、
――何をしているの?
と言って彼女は手招きをした。
――いいの? とぼくは言った。
――悪くはないからね
と彼女は言った。ぼくは三週間くらいの間、生の絶頂にいるような気分だった。
――ただし、わたしのママが許してくれるか分からないけれど
――ママ? 一人暮らしって言わなかったっけ
――あれは嘘だよ。そういう気分だったの……わたしって気分しか無いの
――どんなお母さんなの?
玄関の門をくぐって僕は言った。彼女の家の外装は機能性をあざ笑うかのような作りをしていた。絵のなかにあるような白い家が、目にやさしい照明で照らされていた。そのために夜であっても白い家だった。
――わたしにもよくわからない
彼女は時計を見るかのように顔を上げていた。その目には暗いみどり色の植物のツタが茂る屋根があった。ぼくにはその粗さが田舎にある銀色のバケツの汚い水を思わせた。もちろんそれは泥水ではなかった。
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