悔いは泡と

一齣 其日

壇ノ浦にて

 過ちを今更贖うことなんぞできやしない。

 そう分かっている筈なのに、武者は尚争うことをやめなんだ。

 いつもなら何とも思わぬ大鎧がひどく重くて敵わない。敵の放った矢が左の肩口を貫いて、じくじくと痛みが止まらない。思うような武者働きも出来そうになかった。

 戦況を見れば混戦模様。敵味方双方、数多の船が激しく流れる潮の最中でぶつかり合ってもみくちゃぶりも甚だしい。

 ただ、武者が属した赤旗が次々と倒れ、火の手が次々と上がっていく。

 日が西に傾くにつれ、見知った顔の首が次々と討たれゆく様は、敗戦というものを否が応でも思い知らされてならなんだ。

 寿永四年三月二十四日、ここ壇ノ浦にてかの武者が属する平氏の一党はついに滅びんところまできてしまっていた。

 つい先年に京都を追われ幾星霜、再起の時を伺いながら迫り来る源氏の軍と戦えども、敗戦に次ぐ敗戦。追い詰められた平氏は得意の海上戦にて逆襲を図るが、それも天に見放されこの有様であった。

 その中にあって、武者は揺れる小舟の上を次々と渡ってくる敵兵を前に、退くことはせなんだ。

 名乗りを挙げ、この最後の戦にて手柄を上げんとよく猛る坂東武者の薙刀を捌いては、船に慣れぬ足を払ってそのまま海へと突き落とす。

 次に渡ってきた者に至っては、名乗りを上げんとする前に気迫で懐へと押し入り、喉笛を掻っ切って口を開くことすら許さなんだ。

 だが、焼け石に水とはまさにこのことだ。

 周りを見れば、船がひっくり返されて、這い上がる間も無く討たれた者もいる。追い詰められて、自ら海へと飛んだ者も出始めた。

 平氏の中でも一際猛将と名高い者が遂に果てたという声も、何処かしらから聞こえてくる。

 自らの背を任せた戦友も振り返ってみれば大半が屍と化しており、一人二人残っている程度。

 孤軍奮闘、流石の武者も弱音の一つだって吐きたくなった。

 それもこれも、どこでどう間違ったらこんな最後になってしまうのだ。

 愚かしいと分かりながらも、いらぬことに思考が回る。

 思えば、かの武者が生まれた頃の平氏は、随分と栄華を誇っていたものだった。

 他の武士の一族も、ひいてはこれまで武士を犬畜生のように扱っていた貴族連中ですら、平氏の勢いを止めることはできなんだ。

 敵無しだった。

 が、権威を持てば持つほど、平氏は驕りに驕った。

 まだ年端もいかない禿どもを指揮して、平氏に都合が悪い人間を悉く捕らえた。

 逆らう者たちには遠島、処刑と酷い仕打ちを見せた。

 遂には、平氏と懇意であった法皇ですら反感を持ったと見れば、軟禁してしまうという所業にも出た。


 平氏にあらずんば人にあらず。


 なんて大仰な言葉だろう。

 しかし、これほど当時の平氏に似合いな言葉など無かったのも確かだ。

 それほどに、驕り切っていた。

 そして、転げ落ちた。

 驕り高ぶればいずれ足元を掬われるというのに、驕りに驕った平氏は、最早足下すら見えてはおらなんだ。

 武者も、そんな愚か者の一人であったのは確かだ。

 平氏の一党であることを鼻にかけ、また自身も武勇に優れるところを見て、かつての都で随分とひどい振る舞いもしたものだった。

 権威に託けタダ酒も食らったこともあれば、その辺にいる女を辻取ったことだってある。

 理不尽な殺しだって、いくらもしただろうか。

 だって、我らは平氏なのだから。

 平氏にあらずんば、人では無いのだから。


 いやはや、なんて愚かだ、この己は。


 無意な思考は、ただただ己自身に反吐の一つを吐きかけたいという想いを駆らすばかりだった。

 そんな事をする暇なんぞ、ありはしないというのに。


 猛り声が、どこからか。


 またか。

 そう思った瞬間、いやもう刹那も無かったのかもしれない。

 敵兵が、踏み込んできた。

 いや、飛び込んできたというのが正しいか。

 武者が乗る小舟に思い切り船を叩きつけるや否や、一足飛びに乗って武者の懐へと入り鋒を突き立てる。

 あまりの突然さに、一瞬の動揺。

 だが、いつかは驕り切っていた武者も、戦と敗走を繰り返す中で何度も死線を潜って退けた。

 今眼前にある死線だって、潜れぬはずはない。

 敵兵の持つ刃が喉元を貫く前にその手を掴み止まらせ、逆に腋から一息に串刺しにせんと、刃を返す。

 敵兵はさすがここに飛び乗ってきただけあって力量はあるが、武者と比べたら小柄で力は及ばない。

 このままならば、死線は潜り抜けたものだ。


 そう、思えた。


 一転、身体が回る。

 今まで目の前の兵を見ていた瞳が、眩しいほどの閃光に焼かれそうになった。

 次に、冷たい物が纏わりつく。己の体を掴んでは、離さぬとばかりに引き込んでいく。

 乗っていた船が転覆し体が海へと投げ出されたのだ。

 そのことに気づいたのは敵兵ごと沈み、海面にも指が届くか届かぬかのところにきた時であった。

 どうやら息のない敵兵を見て、上手く討てたらしいことは分かったが、今となっては無意味な話であった。

 元々重い大鎧に身を包んでいるのに、このような敵兵が絡むように沈んでしまえば、浮き上がる術だって一片も無かった。

 空が、遠い。

 空が、遠くなる。

 腕を伸ばし、なお見苦しく足掻けど、渦巻く潮に支配され尽くした体では、如何しようもなかった。


 どうして、こうなった。

 どうすれば、こんな最期を迎えずに済んだのだ。


 言葉もままならない暗い海の底で、武者はただただ悔いを叫ぶ。

 その悔いは泡と失せ、答える者は見上げた天の向こうにも、誰一人とていやしなかった。

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