3 迷子の美女

 通称「銀杏いちょう通り」と呼ばれるそこは、秋になれば綺麗な銀杏並木が通りを彩る。今は冬、通勤や通学途中の人たちは、落葉した木々に目もくれず先を急いでいた。いつもと変わらない朝、いつもと変わらない風景──であるはずなのに、今日は息を飲むような美女が、通りを颯爽と歩いている。

 身長はそこまで高くないものの存在感が半端ない。切れ長の目にすっきり通った鼻筋と整った口元、間違いなく美人である。

 モカベージュのロングコートの中はくすんだピンク色のニットワンピース。ぴったりと体のラインに沿ったそれは、白い肌と栗色の髪に良く似合い、首元の鎖骨がなんとも言えず艶っぽい。

 彼女はふと立ち止まり、オープンカフェの一席に腰をかける。朝食のパンを忙しなく口にかっ込んでいた周囲の客は、ごくりとそれを飲み込んだ。そして、咳払いを一つ、美女の様子を気にしつつ今度はもう少し上品にパンを食べ始める。

 ややして、美女の元に若い男の店員が緊張した面持ちでやってきた。


「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いします」

「ブレンドを一つ」

「モーニングはお付けしますか?」

「え?」

「ええと、あの、飲み物にモーニングをお付けできますが、」

「……だから、何度も言わせないで。ブレンドを一つちょうだい」

「は、はいっ!」


 余計なことを言っては怒られる。そう悟った店員は、すぐさま奥へと消えていった。


「モデル? それとも女優?」

「何かの撮影??」


 周囲でそんなひそひそ声が上がる。見た目は三十代前後といったところなのに、そのたたずまいは完成された淑女のそれである。

 しかし、周囲の目など当の本人──深芳は気づいていない。自分が人の国でも注目される存在だという自覚がないし、何より今はそれどころではなかった。


 やってしまった──。


 今日のデートのために用意していた服に着替え、勢いで寝室から外に飛び出した。昨年末に買ったブーツが運良く寝室にあったのは、今日おろそうと思っていたからである。

 それから式神の獅子を用意してテラスから街へと向かった。家の出入りも、街への移動もしろと言われているので、後で叱られること間違いなしだ。ただ、誰にも見られないよう細心の注意を払ったので大丈夫だと思う。


 人の国で暮らし始めて十数年、大切な娘と大好きな男と一緒に過ごせる毎日は幸せだった。外出は月に一度ぐらいだったが、与平と二人で歩いていると、街の人間はみな振り返る。きっと、この世で一番いい男を見てうらやましがっているに違いない。

 しかし一方で、阿の国と縁を切り、人の国とも繋がらない狭い世界は、深芳をひどく不安にさせた。与平が仕事でいない日はなおさらだ。

 彼だけが仕事を通じて人の国と繋がっていくのも気持ちをざわざわさせた。まるで自分だけが取り残されたような、そんな気分になった。


 そして今日の喧嘩に至る訳である。

 最初、「急な仕事が入った」と聞かされた時は仕方がないと思った。でも、たまたま与平がいない時に彼のスマホが鳴り、仕事の連絡だと思って画面を見たら、いきなり「エキサイティングな夜」なんて言葉が目の中に飛び込んできた。

 深芳だって、与平が浮気をしているなどと、本気で疑っている訳ではない。しかし、今までなんとなく押さえ込んでいた心の内のもやもやが、一気に噴出したのは言うまでもない。「別れる」と言ってしまったのは、あれぐらい言わないと、自分の気持ちが収まらなかったからだ。

 しかし、それが原因で与平に「出ていく」と言われてしまった。

 

(ヘイさんに、ヘイさんに捨てられた──!)


 思わず深芳は、わっとテーブルに突っ伏した。丁度ブレンドコーヒーを持ってきた店員がびくりと体を震わせ、彼はおそるおそるテーブルの端にコーヒーを置いて逃げるように去っていく。


 これからどうしようかと、深芳は思う。お金は必要だろうと思い、カードとスマホ(全て主契約は与平)だけは持ってきた。おかげで、こうしてカフェに入ることもできる訳だが、この二つの資金源を止められたら手詰まりだ。つまり、彼の助力なしでは家出一つできやしないのが今の自分なのだ。


 カップからコーヒーの香りがやんわりと漂ってくる。ややして、深芳は体をむくりと起こすと、コーヒーカップを手に取った。

 憂いを含んだ切れ長の目を伏しがちにしてコーヒーを飲む姿は、見惚れるほど美しい。彼女が大きなため息をこぼすと、なぜか周囲の人間もつられて「はあ」と息をついた。




 そこからさかのぼること少し、深芳が勝手に出ていったことで、マンションではちょっとした騒ぎになっていた。

 紫月は自身のスマホを取り出して、すぐさま電話をかける。しかし、呼び出し音は鳴っても応答はない。気づいていないのか、無視しているのか。


「ヘイさん、どどどうしよう? 一人で出歩いたことなんてほぼないし、どこで何をするやら……。式神を飛ばして探そうか?」


 取り乱す紫月の横で、空っぽになった寝室を与平が呆然と眺める。が、彼はすぐに平静を取り戻した。


「紫月、慌てるな。ミィのスマホのGPS機能をオンにしている。座標はすぐに確認できる」

「あー……」


 その手があった。すっかり与平に首根っこを掴まれている──もとい、愛されていると紫月は思う。


「とりあえず今日の仕事はキャンセルだな」


 嘆息一つ、与平はスマホを取り出すと、まず猿師に電話をかけた。そして彼は、「急に行けなくなった」ことと「夜なら合流できる」ことを手短に伝えた。次に、スマホのマップを広げて彼女の位置を確認する。


「この動きは……たぶん式神を使って銀杏通りに向かっているな。儂たちも後を追いかけよう」

吽助うんすけに乗せてもらう?」

「街は目立つから駄目だ。普通に徒歩とバスで。少し一人の時間を持たせた方がいいだろうし。儂たちが着く頃には頭も冷えるだろう」

「だといいけど。素直に帰るって言ってくれるかしら?」

「儂がちゃんと謝る。が、それでも帰ると言わないなら──、残念だがカードとスマホの決済を止めさせてもらう」

「それって兵糧攻め……」

「補給路を断つのはいくさの基本だ」


 当然とばかりに与平が答える。

 ただの夫婦喧嘩にも攻めの手を緩めないところは、さすがと言うべきか。少々やり過ぎな気もするが、二人の問題なので紫月は口を挟まないことにした。

 すっかり与平の手中に収まっている深芳である。捕獲は時間の問題だった。

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