2 十六年目の大喧嘩

(なに?)


 深芳と与平の声だ。紫月は慌てて服を着て、階下のリビングへと向かう。

 すると、大胆な下着姿の深芳が腕を組んで立っていて、ソファーでゆったりとコーヒーを飲む与平をにらみつけていた。与平はすでに着替えを済ませ、濃紺のシャツに黒のズボン姿だ。


「ど、どうしたの? 二人とも」

「どうもうこうも」


 深芳が、ばっと与平に突きつけたのは彼のスマホ画面である。


「今日は私と出かける約束をしていたのに、急な仕事が入ったなんて言うのよ。それでヘイさんのスマホを見たら──」

「え? いや、母さん、勝手にスマホを見たの??」

「この、ミサキとかいう女よ!」


 娘の突っ込みを無視して、母親がスマホ画面を彼女に見せる。そこには、「ミサキ」という名の者からの短いメッセージが。


──先日は、とてもエキサイティングな夜だった。今日もヨロシク!


「これのどこが仕事よ。紫月もそう思うでしょ?」

「……」


 確かに意味深な言葉である。そうではあるが、微妙に核心に迫りきれていない気もする。そもそも、与平が浮気などという非効率かつ不誠実なことをするとは思えない。

 案の定、与平がため息混じりに答えた。


「そいつは脳まで筋肉でできていて、そういう言葉になるだけだ。何度も言うが、ただの仕事仲間だ」

「その仕事仲間と、どうして今日会わないといけないの。今日は休みだって言っていたじゃない」

「だから、急な要請が猿師から入ったと言っているだろう。ちなみに今日は、いろいろ街がざわついているから外出は禁止」

「自分は外で女と会うくせに、私たちは外出禁止?」

「女じゃなくて仕事だ。いちいち言葉尻をつまんで絡んでくるな」

「私の予定より、この女の予定を優先するからよっ」

「……そもそも、勝手に儂のスマホを見たことに対する謝罪はなし?」

 

 噛み合わない会話を終わらせるように、与平が手に持っていたマグカップをテーブルに置いた。いつもと変わらない調子はさすがだが、その目は静かに怒っている。

 紫月はひいっと縮み上がった。


「母さん、落ち着いて。楽しみにしていた予定がなくなったのは残念だけど、スマホを見るのはまずいって」

「私よりミサキの方が大切だって言われたのよ?」

 

 いやいや。

 いやいやいやいや。紫月はぶんぶんと首を振った。

 誰もそんなこと言っていない。百歩譲っても、優先されたのは「ミサキ」じゃなくて「仕事」じゃなかろうか。

 しかし、深芳の怒りは収まらない。彼女はきっと与平をにらんだ。


「もう別れる!」

「えっ?」


 それは、いくらなんでも唐突過ぎる!


「儂はどちらでも」

「ええっ?!」


 こっちはこっちで真っ向から勝負を受けた!


 話が一気に飛躍して、思わず紫月はオロオロになる。深芳が嘘でも「別れ」を口にして、あろうことか与平がそれに応戦した。こんなこと初めてだ。

 深芳がきいっと目をつり上げて悔しそうに歯噛みする。どう考えても悪いのは母親であるし、どう見たって軍配は与平に上がっていた。


「母さん、謝った方が──」

「絶対に嫌っ!」

「ええと──。あの、ヘイさん、」

「儂が折れないといけない理由は?」


 はい。ありません。折れるべきは、うちの母親です。

 今日の与平は容赦がない。彼はさらに言葉をたたみかけた。


「ああ、安心しろ。儂が出ていくから。コーヒーもちょうど飲み終わるし」

「!」


 あ、効いた。今のはガツンときた。

 おそるおそる深芳の様子をうかがう。と、最初の勢いはどこへやら、深芳は顔面蒼白となって小刻みに震えている。


「もういいっ!」


 涙声で捨てゼリフを吐きつつ、与平にスマホを投げつけて、深芳は寝室へと小走りに戻っていった。


「……ヘイさん、」

「しばらく放っておけ。後で様子を見に行くから。それより、碧霧さまは?」


 やれやれと与平がため息をつきつつ、碧霧の姿が見えないことを尋ねた。

 紫月の胸がどきんと跳ねる。まさかこちらも喧嘩をしたなんて、口が裂けても言えない。

 彼女は笑って誤魔化した。


「なにか用事があるって、慌てて帰ったわ。忙しなくて困っちゃう」

「ははは、碧霧さまも大変だな。それでも紫月に会いに来てくれるんだろう?」


 ようやくいつもの与平に戻り、紫月はほっと胸をなでおろす。

 紫月は与平の隣にちょこんと座った。


「ごめんね、スマホを勝手に見るなんて」

「別に隠すことも見られて困るものもないし、そこはそんなに怒ってない」

「珍しいね、二人が喧嘩するなんて」

「や、それなりにしていると思うがな」

「違う違う。いつもは母さんが一人でぷんぷん怒っているだけじゃない。あんな風に言い争いになったのは初めて見た」

「ああ、いつになくごねるから、ちょっとこちらも意地になった。ま、……そろそろ限界だろうな」


 与平がぽつりと呟く。紫月が首を傾げると、彼は申し訳ない顔をした。


「ここでの生活は、何かと制約が多い。もともと居着くつもりもないから、仕事をしている儂と違ってミィは誰とも繋がりがない。ここで日がな儂を待つだけだ」

「それは、まあ……」


 最初の頃こそ珍しく楽しかった人の国の生活。でも与平の言うとおりで、深芳や紫月には人の国で他のあやかしと交流する機会がない。

 身を隠しているというのが一番の理由だが、余計なトラブルに巻き込まれないためというのも大きい。当然ながら外出も与平と一緒でないとほとんどしない。

 人の国はあやかしが手放しで自由に生活できるほど甘くないのだ。


「今日はミィにとって久しぶりの外出だったからな。悪いことをした」

「母さんだって分かっていると思うわ。それにきっと言い過ぎたとも思っていると思う」


 母親の気持ちを代弁する。与平が「そうだな」と笑った。この国に来て良かった唯一のことと言えば、与平と本当の家族になれたことだ。


「ヘイさん、ありがとう」

「何が?」

「なんとなく」


 ちょっと甘えたい気持ちになって紫月は与平にもたれかかった。与平が少し驚いた顔を見せる。しかし彼は、むげに突き放す訳でもなく、必要以上に抱きしめる訳でもなく、ただ受け止めてくれた。この距離感が心地いい。碧霧とは違う安心感だ。

 紫月はひとしきり彼に甘えると、「うん!」と気持ちを切り替えて立ち上がった。


「ヘイさん、私が母さんに声をかけてくる」


 言って紫月は、与平をリビングに残して寝室に向かった。

 そして、「母さん、入るよ」と声をかけ、寝室のドアを開ける。すると、びゅっと冷たい風が吹き込んできて、彼女は思わず顔をしかめた。

 テラスに続くガラス戸が大きく開け放たれていて、中には誰もいない。


「母さん?」


 折しも、キングサイズのベッドから、一枚のメモ紙が風にあおられ紫月の目の前に舞い落ちる。

 なんだろうとメモ紙を見て、紫月は「へ──?」と間抜けな声を上げた。


──私が出ていくわ。


「えええっ?! ヘッ、ヘイさん!!」


 今日の深芳は、なぜかとことんこじらせていた。

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