4 家に帰ろう
今日、たまたまそこに居合わせた人間は、通りに面したカフェに佇む美女から目が離せないでいた。ここまで完成度の高い美人はそういない。憂いのある顔で、ぼんやりとコーヒーを飲む姿さえ様になっている。
何をそんなに悩んでいるのか。いや、誰かを待っているのかもしれない。男であれば声をかけたいところであったが、気後れしてしまって誰も声をかけられない。
その時、「見つけた!」と鈴の音のような声が通りに響いた。
今度は、黒髪の二十代と思える女の子が現れた。姫カットのロングヘアに、オフホワイトのセータと茶系のワイドパンツ姿、胸元には革紐で巻いたアメジストのペンダントが揺れている。髪色や雰囲気は全く違うが、顔立ちは美女に似ていて、負けず劣らずの美人だ。
少し年の離れた妹……か?
そうみんなが思った時、
「母さん!」
と黒髪の女の子は、美女に駆け寄った。美女がはっと顔を上げる。
マジかーいっ! その場にいた人間はみなそう思った。
妹じゃなくて娘? なに、お母さんだったの??
ちょっと待って、あなたの娘にしては大きくない??
少なからず衝撃が走る。中には飲みかけのコーヒーをゴフッと吹き出した人もいる。
しかし一同は、ぐっとこらえて母親と娘のやり取りを見守った。
「母さん、探したわよ」
「もう放っておいて。私なんかいなくても、二人で仲良くやれるでしょ」
美女がふいっと顔を背けて、娘に対して拒絶の意を示す。
よく分からないが、母親が一方的にこじらせているようである。
すると、黒髪の娘にやや遅れる形で一人の男が現れた。
「ほら、母さん。ヘイさんも来たよ」
浅黒い肌に髪を短く刈り上げた男は、黒のチェスターコートを羽織り、濃紺のシャツと黒いパンツにたくましい身を包んでいた。そしてなぜか腰に色鮮やかな金茶の組紐を結んでいる。それが刀に結ばれている
年齢は美女より年上に感じるものの、せいぜい三十代後半といったところだろう。しかし、熟成された落ち着きと、そこはかとなく漂う色気が、年相応ではない貫禄を醸し出している。
またすごいの出てきたな。こんな貫禄のある三十代の男、見たことない。
美女のこじらせ原因はこの男だ──。みんなは、すぐに分かった。
ただ、三人の関係が分からない。
黒髪の娘は美女のことを「母さん」と呼ぶのに、男のことは「ヘイさん」と呼んでいる。つまり、男は娘の「父」ではないらしい。
三人はどういう関係なのか……? 思わず首をかしげてしまった人々だが、次の瞬間、はっと震え上がった。
もしやっ、母と娘を巻き込んだ三角関係?!
そう言えば、さっき母親は「二人で仲良くやって」とかなんとか言っていた。つまり、その言葉から察するに、母親と恋人関係である男は、娘にも手を出したと。
まさかの取っ替え引っ替え──。この男、誠実そうな地味顔のくせして、クズいっ、クズ過ぎる!
いつもと変わらない冬の朝、冷たい空気が清々しく、空は高く澄み渡っている。
しかし、人々の妄想は止まらない。
母か娘か、娘か母か──。なんとも悩ましい選択に、各々がそれぞれに頭を抱えた。
すると、男がカフェのテーブルでしょぼくれている美女に歩み寄った。
ごくりと固唾を飲んでみんなが見守る中、男が片膝をついて彼女の顔を覗き込む。
「探したぞ。あまり心配をさせるな」
「……」
「さっきは儂も言い過ぎた。約束を守れなかったことも悪いと思っている」
「……怒ってない?」
「ない」
「出ていかない?」
「いかない」
言って彼は、人目もはばからず彼女の頭に手を回すと、そのまま彼女に口づけた。美女に拒む隙なんて与えない、濃厚な口づけだ。
行き交う人の足がピタリと止まり、カフェで食事中の人は食べかけのパンをぼとりと落とした。
「ほら、家に帰ろう」
ゆっくりと唇が離れ、美女がとろけた顔でこくりとうなずく。黒髪の娘が、そんな二人に覆い被さるように抱きついた。
「良かった~! ほんと、どうなるかと思ったんだから!」
娘が心底嬉しそうなのは、きっと母親とその恋人との仲直りを心から歓迎しているから。
分かる。分かるけど──。
いや、もうこれ、なんの安いドラマなの……?
美女がめちゃくちゃチョロ過ぎる。
もう少し修羅場を期待した……もとい、心配した人々は、あっけなく事が収まったことに拍子抜ける。しかし、三人の家族関係が良好であることと、男が見た目どおり誠実であったことに、誰もがほっと胸をなで下ろした。
とにもかくにも、円満解決したようである。
とにかく良かった!
どこからともなく拍手が起こり、こうして深芳の家出は終了した。
銀杏通りに日常が戻り、周囲の人々が爽快な面持ちで解散する中、与平が深芳の隣に座った。
「何か食べた?」
「コーヒーを飲んだだけ」
「じゃあ、ここでそのまま遅めの朝ごはんを食べるか」
「いいの? 仕事は?」
「今夜、合流することになった」
深芳は与平の言葉を聞いて、申し訳ない思いでいっぱいになった。
なぜなら、それはきっと、そのように調整してくれたからにほかならないからだ。我ながら大人げないわがままを通してしまったと彼女は思う。
しおらしくうつむく深芳の頭を与平の大きな手が優しくなでた。そろりと深芳が顔を上げると、彼は穏やかに目をなごませた。
「モーニングを頼もう。追加注文できるだろうから」
「モーニング、」
そう言えば、さっきの店員がそんなことを言っていたような気がする。
「ここのモーニングは、種類が豊富で味もいい。ミィもきっと気に入ると思う」
「……誰かと食べたことがあるの?」
深芳は何気なく与平に尋ねた。与平がふと思案して、それからにこりと笑った。
「まさか。もちろん、ミィと食べるのが初めてだ」
「そう?」
「そう」
「じゃあ、楽しみね」
「ああ、楽しみだ」
いやいや、今ちょっと間があったよね?
……やっぱり、悪い男だ。
紫月を含め、その場にいた深芳以外の誰もがそう思った。
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