5 会いに
人の国──、マンションの最上階の自室で紫月はテラスに生足を放り投げ、夜風に当たりながらころりと横になっていた。
季節は夏、着ているものもタンクトップにショートパンツで、以前の寝間着に比べたらとても楽な格好姿である。湿気を含んだ生ぬるい風はさして涼しくもなく、そろそろエアコンを付けようか紫月は悩んでいた。ただ、あの人工的な涼しさはあまり好きではない。
それで二本の生足をテラス側に放り出すという行儀の悪いことをしているわけだが、誰も見ていないので良しとする。
人の国の夜は明るい。街の明かりが夜空を照らすおかげで、星も遠慮して身を潜めている。大きな月だけが踏ん張ってその存在を誇示していた。
月夜の里から逃げ延びて一年、やっと碧霧に会えた。こちらの身の安全を考慮して、彼は居場所を千紫から教えてもらえなかったらしい。仕方のないことだとは言え、彼には心配をかけっぱなしだ。
あの日、碧霧は
何も言わず姿を消したにもかかわらず、だ。
もしかしたら、あの夜の一件──旺知に襲われた夜のことを碧霧はもう知っているのかもしれない。
ふいに、あの時のことを思い出し、紫月はまぶたをぎゅっと閉じる。全く別世界である人の国で生活をし、かなり気は紛れていると思うし、思い出すことも少なくなった。しかし、それでも何かの拍子に今でも悪夢が脳裏をかすめる。
本当は、碧霧にずっとそばにいて欲しかった。でも、そんなこと伯子という立場で許されるはずもない。案の定、彼は「誰にも言わずに来たから」と言って、現状を報告しただけでさっさと帰ってしまった。
そして、あれからもう三か月は経っている。
(大変なのは分かるけど、ちょっと放っておきすぎじゃない?)
簡単に来ることができないことは分かっているが不満がつのる。あの日、さっさと帰ってしまう彼に対して「それでもいいや」と思ったのは、すぐにまた会えるだろうという甘い算段があったからである。
まさか、ずっと放っておかれるなんて。
「……仕事バカ、薄情者、ダメ男、役立たず、トウヘンボク」
思い付いた悪口を並べ立てる。これぐらい言わないと、こちらが寂しくなるばかりだ。
「このまま会いに来ないのなら、いっそ誰かに乗り換えちゃうんだから」
最後に一人で宣言すれば、ふいにテラスで声がした。
「冗談でもそういうこと言うのやめてくれる?」
慌てて放り出した足を引っ込めて体を起こせば、碧霧が呆れた顔でテラスの植え込みのそばに立っていた。彼は先日来た時と同じ、黒の武装束だ。
「葵!」
紫月は立ち上がって乱れた髪を素早く直した。そして、碧霧に気まずい顔を返しつつ、それを誤魔化すように「えへっ」と笑った。
「いつからそこに?」
「……仕事バカってあたりから」
「あー……」
ほぼ最初からではないか。紫月はいよいよばつの悪い顔をしながら、むうっと口を尖らせた。
「黙って女の子の部屋に入って来ようとするなんて、マナー違反だわ」
「人の国では気配を消せと猿師にきつく言われているし、まさか足を外に放り出して寝ているなんて思わなかったし」
うっと紫月は言葉に詰まる。これは、早々に敗北宣言をした方がいい。
「だって、全然会いに来てくれないんだもの」
「うん、そこはごめん」
碧霧が歩み寄り、紫月を力強く抱き締めた。そして、軽めのキスを唇に落とし、それから愛おしそうに、頬や首筋にも口づけた。
「御化筋の通り方を習っていたんだ。猿師に一人で阿の国と往来できるようになれと言われていて」
「それで今日は一人なのね」
話しながら肌をついばむ碧霧の唇がくすぐったい。久しぶりの甘い感触に、紫月の体が熱くなる。嗅ぎ慣れた彼の匂いは、不安と不満でささくれた気持ちを落ち着かせてくれた。
「今日はゆっくりできるの?」
「できれば三日ほど泊まりたい」
「本当に?」
「猿師に宿題を出されてるからな」
顔を輝かせる紫月とは対照的に、碧霧はうんざりした顔で肩をすくめた。
ひと通り
一人で紫月に会いに行くこともその一つだ。そして後は、人の国の暮らしというものをざっくり見てくるように言われた。
今回は、以前通った浦ノ川柵近くの御化筋を使うことを許された。しかし、本当なら最初から全て自分でしないといけなくて、他にも道が欲しければ自分で探せといったところだろう。
わりと無茶振りだと碧霧は思っている。
どこに繋がっているか分からない御化筋。人の国の地形を知らないと、出た場所がどこかも把握できない。しかし、猿師がそれを手取り足取り教えてくれる気配はない。知りたければ自分で調べろと暗に言われている気がする。
「先生はどう? 厳しいけど優しいでしょ?」
「や、俺には厳しいばっかりだけど。同じ質問は二度聞けない感じだし、馬鹿な質問はそもそも受け付けてくれなさそう。もう緊張感が半端ない」
げっそりした口調で碧霧はぼやく。本当に困った様子の彼を見て、紫月はクスクスと笑った。
「先生は、どうでもいい輩は最初から相手にしないわ。葵に期待している証拠よ」
「だといいけどな」
「大丈夫だって」
「……そういうことにする。でないと心が折れる」
言って碧霧は再び紫月を抱きすくめた。そして、今度はそのまま黙り込んで動かなくなった。おそるおそる紫月が碧霧に声をかける。
「葵、疲れてる?」
「まあね。紫月とゆっくり過ごしたい」
「うん。せっかくだから、休んでいって」
「それに……」
「?」
「帰るとまたしばらく会えなくなるから、紫月をいっぱい堪能する」
碧霧が耳元でそう
「と、とにかく部屋に入って。暑いでしょ? エアコンを付けるわ。エアコンってね、とっても涼しくなるのよ。ちょっと寒いくらいに。それに、いつ葵が来てもいいように服も用意したのよ」
あれこれと矢継ぎ早に言いつつ、紫月が碧霧を部屋の中へと促す。黒髪の隙間から覗く赤みをおびた耳が可愛らしい。碧霧は彼女の手を取り指を絡めた。
「今夜は離さないから」
そう背後から告げると、彼女はさらに耳の先を赤くした。
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