月と影

1 秋雨の庵で

 東の家元屋敷が集まる区画。その中でも里中に近い周辺は、うらぶれた場所である。そこに住むのは、成り上がりきれなかった二つ鬼や落ちぶれた一つ鬼で、成功した者たちは同じ東でも洞家屋敷に近い場所に居を構えている。


 そんなうらぶれた場所に元四洞家の直孝の庵はあった。苔むした小さな門をくぐると、質素な平屋の建物とこじんまりとした庭が見えてくる。

 今日は朝から雨が静かに降っていて、直孝は縁側で雨に濡れる庭を眺めていた。どこから種が飛んで来たのか、いつの間にか根付いた秋桜コスモスがしっとりとした色を放ち、一面に咲き乱れていた。


 その庭先に、灰色のフード付外套マントをまとった男が雨音とともに現れる。男が目深にかぶったフードをまくって二本の角と顔を見せれば、直孝は穏やかな笑みで「こちらへどうぞ」と促した。


「これは伯子、お忍びですかな? 月夜の里に戻って来ていることが知れたら大事になるのでは?」

「はい。お久しぶりです、直孝おう


 鬼伯旺知あきともによる沈海平への報復から一年半、伯子が西の領境へ事実上の追放となっていることは、直孝も知るところであるらしい。

 碧霧は苦笑しながら雨露を払うと、家には上がらず廊下の端に腰をかけた。直孝がやおら腰を浮かせて立ち上がる所作をする。


「お茶ぐらいお出ししましょう」

「いえ、すぐに帰ります。待たせている者もいるので」


 碧霧がすぐさま断るので、直孝は「そうですか」と言って座り直した。


「それでその時間のない中、何用ですかな? 沈海平しずみだいらがあのようなことになった今、私の知識はもう必要ないでしょう」

「あの後、宗比呂おうは、古閑森こがのもりへ向かったと聞きました。無事に真比呂たちと会えたでしょうか」


 碧霧が尋ねると、直孝は「さあ」と小首をかしげた。


「分かりません。なんせ、なんの音沙汰もありませんから」

「……そう、ですか」

「聞きたいことはそのことで?」


 直孝が探るような視線をこちらに向ける。すっかり見透かされている気がして、碧霧はほんの一瞬だけ決まり悪く視線をそらした。


「……月詞つきことを歌えるあなたに聞きたいことが」

「と、言うと?」

「紫月が──もう聞き及んでいると思いますが、落山の姫が月詞を歌えます。以前、あなたは月詞を『天地あまつちと共に生きる知恵』だとおっしゃいました。しかし、彼女の歌は天地あまつちを従えさせるかのような恐ろしささえ感じます。もっと重要な、何か役割があったのではないかと」


 碧霧は注意深く直孝の様子をうかがった。口を閉ざされる可能性も大いにある中で、少しでも確信めいたものが欲しかったからだ。


 先日、ずっと行方をくらましていた紫月に会えた。伏見谷の猿師によって人の国へと逃れていて、母親の深芳や下野しもつけ与平と共に元気な生活を送っていた。


 紫月を阿の国へ連れて帰ることはできないものの、彼女が見つかったことは、碧霧の気持ちをぐっと前向きにさせた。今まで停滞していた思考が、一気に動きだしあふれるような感じだった。

 考えなければならないことは山ほどある。

 そして、その最たる案件の一つが「白銀の子」だった。


 月詞つきことにより呼び寄せてしまった白銀の子。

 あれは今も紫月の体の中にいて、名を呼ばれるのを待っている。当然あのままという訳にはいかず、しかし、何者かも分からず、碧霧はずっとあの存在について考えていた。しかし、ある一つの可能性が頭に浮かぶまで、そう時間はかからなかった。


──は月の光にして影。そして、刃なり。


 あの言葉の意味するところは。


 確かめないと、と思った。しかし、月詞つきことは三百年前に父親によって葬られた歌である。元伯家の末姫で歌い手である藤花はすでに亡く、紫月の母親は後妻の連れ子で元伯家と血の繋がりはない。当時のことが分かる月詞の歌い手はもう直孝しかおらず、他に頼る者がいない。

 すると、直孝は少し思案する素振りを見せてから口を開いた。


「伯子は、元鬼伯である影親かげちかさまの先妻のことをご存じですか?」

「先妻……ですか?」

「そうです。後妻は落山の方さまの母君であることで有名ですが、先妻についてはあまり知られていないでしょう?」

「そうですね。どなたですか?」

「私の姉です。私と同じく月詞が歌えました。そして元鬼伯影親かげちかさまの嫡子、清影さまは私の姉の子にございます」


 思わず碧霧は目を見開く。直孝はくすりと笑った。


「全ては伯家の力を保つため。当時、鬼伯であった影親かげちかさまも鬼伯の証しである宝刀月影を手に入れようと躍起だったのです」

「手に入れる? 宝刀月影は伯家に伝わっていたのではないのですか」

「……違います。当時、鬼伯であった影親さまは、実は無刀の王でありました」


 思わず碧霧は「え?」と驚きの声を漏らした。その反応を当然とばかりに直孝が頷いた。


影親かげちかさまが伯座にお就きになった時、宝刀月影は存在していませんでした。正確には、影親さまの月詞つきことでは。慌てた伯家は、月詞の力をさらに強めるために私の姉を妻として召し上げ、清影さまが生まれました」

「そんな。いや、だって──、そもそも宝刀のない状態でどうやって伯座に就いたのです? 伯座を奪った父上は今でも『無刀の王』と揶揄やゆされている。俺の伯太はくたいの儀の時も、父上の宣旨せんじをもって宝刀それに代えた」

「それは、今の伯家が宝刀を持っていないことが周知の事実であるからでしょう。しかし、当時は違います。それは当然にだとされていた。ですが、そもそも宝刀月影を見たことがある者は誰もいないのです。仮に『これがそうだ』と言えばそうなりますし、その真偽を確かめるすべもない」

「……まさか、偽物で誤魔化した?」

「ご想像にお任せします」


 三百年前、父親の旺知あきともが起こした謀叛。奪った伯座を正当化するためにも、宝刀月影は手に入れる必要があった。しかし、正統な鬼伯の証しの刀は今なお見つからず、どこかに隠されたものだと誰もが思っている。

 まさか、当時から行方が分からなかったなんて。


「このことを知っているのは洞家でも縁戚であった私のみ、あとは伯子の清影さまだけです。姫君である落山の方さまや亡くなった藤花さまにいたっては、どこまでご存じだったか……」


 予想外の直孝の告白に碧霧は言葉をなくした。

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