2 最後の言葉

 雨は変わらずしとしとと降り続け、碧霧と直孝の声を包み隠す。誰かに聞かれたくない話をするには、今日は本当に都合のいい日だった。

 直孝の淡々とした声が続いた。


「当時、誰も歌うことのできなかった天地あまつち御詞みことを歌い、月影を手に入れること。それが、当時の伯家における最も重要な命題にございました」

おう。つまり月詞つきことは、宝刀を手に入れるためのものだと、そう考えてもいいと言うことですか?」

「はい。最終的にはそうなります。月詞の調べの先に、宝刀月影はある。そう聞き及んでおります」

「月詞の調べの先……」


 伯家が伯家たりえるもの。正統な伯座継承の証し。

 ほぼ間違いない。白銀の子──がきっとそうだと、心の中で碧霧は呟いた。見つからないはずである。そもそも刀の形状を成していないのだから。

 同時にもう一つの疑問が頭に浮かんだ。碧霧はそれを直孝に投げかけた。


「月詞と宝刀の関係は分かりました。しかし紫月は、落山の方と者である俺の伯父、九洞くど成旺しげあきの間にできた娘で、元伯家の血を全く受け継いでいません」


 碧霧の問いに直孝は大きく頷く。そして彼は、「これはかなり昔の噂でございますが」と前置きをして庭に目を向けた。


「月夜の変の後、影親かげちかさまはほどなくしてお亡くなりになりましたが、伯子の清影さまは長い間幽閉されていたのはご存じですか?」

「はい。北西の山奥にある座敷牢ですね」

「……清影さまが亡くなられるまでの二百年間、お世話のために月に一度だけ通い続けていた者がいます。どこぞの端女はしためだったとか」

「それが?」

「落山の側妻そばめとなった深芳さまではないかという噂がございまして」


 ぴくりと碧霧は片眉を上げる。

 話としてはあり得るものである。座敷牢に囚われた兄を思い、ひたすら通い続けた健気な妹姫。しかし、清影と深芳に血の繋がりはなく、二人は実の兄妹ではない。

 その意味するところは──。碧霧の表情は、みるみる険しくなった。


「……伯母上が不貞を働き、義理の兄と通じたとでも言いたいのか」


 直孝が含みのある眼差しを返してから再び庭を眺めた。


「ただの噂にございます。それも、すぐにピタリと収まりました。座敷牢の牢番頭が、噂の端女はしためは里一の美姫とは似ても似つかぬと否定したからだと聞いております」

「座敷牢の、牢番頭──」


 碧霧はごくりと生唾を飲んだ。下野しもつけ与平のことだ。

 当時、八洞やと家の家臣である男が、六洞家の管轄だった座敷牢の牢番に抜擢ばってきされた。それが与平である。彼が勘定方筆頭でありながら、六洞衆三番隊長という異例の肩書きを持つのもこのためだ。世間的にはあまり知られていないが、六洞衆では有名な話である。

 そしてその男は今、紫月たちと共に阿の国を逃れ、深芳の夫となっている。


(これはただの偶然か)


 深い猜疑心に囚われていくのが分かる。もし噂が本当なら、紫月が月詞を歌える理由も納得がいく。


(でも、ちょっと待て。いくら伯母上と言っても、勝手に座敷牢に通うなんて無理だ。それに、その時の伯母上の夫は、あの『なし先生』だぞ。妻の不貞に気づかないなんてこと──)


 知っていたとしたら?

 頭の中、もう一つの声が彼の思考に横やりを入れた。

 むしろ、妻の不貞を知っていて黙認──と言うより観察していた。そう考える方がしっくりくる。なぜなら、「なし先生」とはそういう鬼だからだ。

 元伯家の血を引き継ぐ一つ鬼の娘。彼にとって、これほど面白い駒はない。


 妙な居心地の悪さを覚え、思わず碧霧は立ち上がった。

 無邪気に問いかけてしまったが、これは聞かなくていい話だった。


「すみません、長居しすぎました。また来ます」

「いいえ、これで最後にいたしましょう」


 すると、碧霧の意に反して、静かな声が唐突に終わりを告げた。にわかに戸惑う碧霧に直孝は目礼する。


「今のあなたさまの状況でここに通うは、あまりに危ない。最後に幾つかお伝えし、それでしまいにいたしましょう。どうかご容赦を」


 赦しを乞われれば、さすがの碧霧も強くは出れない。こうして会うことが危険であることは直孝も同じで、「迷惑だから来ないでくれ」と言われたも同然だ。

 かと言って、すぐさま了解の意を表明することもできない。しかし直孝は、そんな碧霧に構うことなく話し続けた。


「まずは、西の領境を掌握し、くれないの鬼と和議を結びなさいませ。西は無法地帯も多く、領内自体が疲弊しきっている。内側から攻めれば、必ず思い通りに話が進み、彼らは碧霧さまの強い後ろ楯となりましょう。南の領は中立ではありますが、油断は禁物です。そして次に、人の国の伏見谷を味方につけること。おそらく、二代目九尾が現れます。あなたさまがつとするならば、その時です」


 碧霧の顔がぴくりと強ばる。そんな伯子を直孝はまっすぐ見つめた。


「時代が再び動こうとしています。あなたさまは、その只中ただなかにいる」

「なぜ……、二代目九尾が現れると分かる?」


 ふと、「なし先生」と話しているかのような錯覚に陥った。淡々と、しかし、こちらの気持ちを見透かすように鋭く核心を突いてくる。

 動揺する気持ちを抑えて直孝に問えば、したり顔が返ってきた。


「古くからの盟約により先代九尾から預かっていたは、藤花さまから小さな姫君に引き継がれたと思われます。全ては必然、これは大妖狐復活の兆しにございます。端屋敷はやしきの姫君を必ず伏見谷へと嫁がせください。それが始まりの狼煙のろしとなりましょう」

「……俺に、父親から伯座を奪えと?」

「もう、そのつもりでいらっしゃるのではないのですか? 岩山霞郷がっさんかすみのごうを奪われた時から」


 何を今さらといった口調で直孝が言った。そして彼は、最後に清々しい笑みを見せた。


「もう私からお伝えすることは何もありません。さあ伯子、お行きなさい。振り返らず、前だけを見据えて──。その先に北の領の未来があります」

「……」


 本当はもっといろいろ聞きたいことがあった。仲違いしたままの彼の子ども──加野や佐一ともいつか会わせてやりたいと思っていた。

 けれど、一緒にいたいと思う者は、いつだって自分に思いを託して目の前から去っていく。


 寂しさを隠すことなく直孝に見せた後、碧霧は深々と頭を下げる。そして、踵を返して直孝に背を向けると、彼はためらうことなくその場を去った。


 強くなり始めた雨が、伯子の後ろ姿をかき消していく。


(……なし者、伝えるべきことは全て伝えたぞ)


 直孝は誰もいなくなった庭を眺め、満足げに目を細めた。


 この日を境に、白髪の一つ鬼は庵から姿を消す。しかし、このさびれた庵に住んでいる一つ鬼を気にかける者など誰もおらず、周囲の者がそれに気づいたのは、ずっともっと後のことだった。

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