3 九尾の弟子

 直孝と別れ、碧霧は花月屋に向かった。月夜の里にはお忍びで帰ってきているので、御座所おわすところに立ち寄る気はない。今夜はここで伏見谷の猿師と夕食がてら会う予定である。人の国へ通じる御化筋おばけすじについて本格的に教えてもらうためだ。

 裏口から店に入ると、可愛い童が座敷へと案内してくれた。


「今日はこちらのお部屋となります」


 迷路のように入り組んだ廊下をすいすいと歩き、童がとある部屋の前で立ち止まる。彼が襖をすっと開けると、そこは八畳ほどの和室で、部屋の隅には先に預けてあった荷物が置かれ、左奥には四畳半ほどの寝間もある。

 中央の座卓には、すでにお茶と菓子も用意され、すぐにでもくつろげる状態となっていた。

 童は玄関で受け取った碧霧の外套マントを入り口の衣桁に掛けつつ彼に言った。


「夕方、お連れさまがお見えになられましたらご案内します。食事もその時にお持ちします」

「ありがとう。それでいい」


 碧霧がお礼を述べると童はぺこりと頭を下げて部屋を出ていった。

 ようやく一人になり、碧霧は畳の上にごろりと仰向けになる。

 大きく息をついて目を閉じれば、疲れが体からしみ出してくるのが分かった。


(自分で確かめたいと思って直孝おうのところへ行ったのに、聞いた話が重すぎたな)


 にわかに全てを消化しきれず、自身の頭がいっぱいいっぱいになっているのを自覚する。直孝の口からはっきりと告げられたことは意外と少ない。特に、紫月の出生に関する話は噂のみで、二代目九尾の出現に至っては予言に近い。

 しかし、彼の迷いのない口調から、それがただの空言そらごとだとは思えず、碧霧を混乱させるのに十分な内容だった。


 西の領境である浦ノ川柵では、魁たちとの密会に向けて左近が奔走中だ。奥院では、七洞家の美玲が行儀見習いという形でかろうじて千紫と繋がってくれている。

 決して自分は一人ではない。けれど、ずっと「伯子」であることを求められ、自分は「伯子」であり続けている。時折、それがひどく孤独に思え、寂しく感じる。


「……疲れたな」


 誰もいないのをいいことに弱音をこぼす。沈海平しずみだいらの一件から、一人で選択し決断することが増えた。選択するには情報が、決断には胆力がいる。謝罪も言い訳も聞いてなんてもらえないし、いつだって必要なのは最良の結果だけだ。


 紫月に会いたい、と思う。どうでもいい会話でも彼女となら許される。


 あれ以来、彼女に会いに一度も行けていない。そもそも人の国へ行くには、御化筋おばけすじをきちんと見極めて通る必要がある訳で、そこを学べていないのだから行きようもないのだが……。




「失礼いたします。お連れさまがお見えになりました」


 廊下で童の声がして、はっと碧霧は目を開けた。

 どうやらいつの間にか深く寝入ってしまっていたらしい。少し目を閉じただけなのに、ずいぶんと時間が経っていた。


「お客さま?」

「ああ、ごめん。通してくれ」


 慌てて起き上がり姿勢を正す。と、襖が開いて、シャツとズボンという現代風の男が現れた。

 短い黒髪を後ろに撫でつけた眼光鋭い細面の男は、碧霧に向かって小さく頭を下げた。

 かつて阿の国でも名をとどろかせた大妖狐九尾。その最初にして最後の弟子が、目の前にいる妖猿百日紅さるすべり兵衛である。東の端屋敷はやしきに幽閉されていた藤花を守り続け、今は彼女の娘を守っている。

 ちなみに、「猿師」とは六洞りくどう衆の隊士たちが口にする彼の呼び名である。紫月は彼のことを「先生」と呼んでいるし、深芳は「弟子殿」と呼んでいた。


「お休みでしたか?」


 手のつけられていない座卓の茶菓子を一瞥いちべつし猿師が笑う。すっかり見透かされ、碧霧も苦笑を返すしかなかった。




 二人で夕食を早々に終えた後、二人は花月屋を出て落山のさらに山奥へと移動した。日中降っていた雨がすっかりやんで、空にはあまたの星が広がっていた。しかし、木々に囲まれた鬱蒼うっそうとした森は月明かりも届かず、鬼火を灯さないと辺りが見えない。

 適当な場所まで来ると、ふいに猿師が立ち止まった。


「花月屋は、よくご利用に?」

「ええ。表向きの会合にも便利ですが、秘密裏に会う時はさらに都合がいい。誰かと鉢合わせになることがまずない」

「……確かに。店主は迷い道と結界を上手く使っている。人の国でも、あそこまで結界を上手く使いこなしているあやかしはそういない」


 言って彼は、手元に灯した火を夜空へと掲げる。


「さあ、始めましょう。御化筋おばけすじも要は花月屋の廊下みたいなものです。あれより単純ですから、すぐに覚えられるでしょう」

「花月屋の廊下は迷い道なんですか?」


 迷い道みたいだと思っていたが、迷い道そのものだとは思ってはいなかった。碧霧が驚きの声を上げると、猿師はくすりと笑った。


「まあ、そうですね。そして御化筋おばけすじも迷い道の一種だ。ほら、あそこの空間にわずかな歪みがあるのが分かりますか?」


 そう言われ、碧霧は猿師の指し示す方向に目を向ける。真っ黒な空間をよくよく凝らして見てみれば、確かに周囲と何か違う箇所がある。


「……あそこだけ、火の光が突き抜けずに吸い込まれている」

「そう、あれがです。あやかしが日常的に通るには、少し小さすぎますが、練習用にはちょうどいいでしょう。碧霧さま、霊糸をったことは?」

「昔、気のりを習った際に重丸から教えてもらいましたが──、普段はあまり使わないな」

「では、おさらいも兼ねて。今日はそれを使います」


 猿師の指南が始まった。

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