3 地平線の向こう(前)

 右近が目を覚ますと、見たこともない白い布張りの天井が目の中に飛び込んできた。六洞りくどう衆が野営で使うそれとも違う、もっと広くて大きな天幕テントの中だ。

 馴染みのない香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。匂いの元を探して顔を動かすと、ガラスでできた見たことのない球体の容器に黒い液体が入っていて、それがポコポコと音を立てていた。

 あれは阿の国では珍しい珈琲コーヒーという飲み物だ。以前、曲坂まるざか通りの茶屋「花月屋」で店主の那津に振る舞われたことがある。


(……あんな風にれるのか)


 ぼんやりとした頭で、どうでもいいことに感心する。

 そもそも体の感覚がない。重たいとも少し違う。体の動かし方をすっかり忘れてしまっているというのが一番近い気がする。

 まずは指先に命令を出してみる。それから、手の平全体、足先、腕──。四肢がちゃんと動くことを確認してから、右近はようやくゆっくりと上半身を起こした。


 着ていたはずの黒い武装束は、白い寝間着に変わっていた。右近の寝床は地面に敷かれた茶色い毛氈もうせんの上に設えられていて、ちょっと硬めの敷布団がちょうどいい。天幕テントの中はまるで居宅のようで、日用品が部屋の簡易な棚に綺麗に並べられ、中央にはテーブルまである。


 自分は古閑森こがのもりの入り口で火矢と戦っていたはずだ。それとも、あの夜の悲惨な出来事は夢だったのだろうか。その証拠に、大怪我を負っていたはずなのに今の自分には傷の一つもない。

 しかし、だとすればここはどこだろう? 自分の身に何が起こったのか全く見当もつかず、右近はぼんやりと自分の両手を見つめた。


 その時、出入り口の垂れ幕がぱさりとひるがえり、派手な赤髪の男が現れた。

 大きな花が描かれた赤の小袖を肩に羽織り、腰に色鮮やかな組み紐を何本も巻いている。褐色の肌と少し弓なりに反った頭の角は、西の紅一族の特徴である。

 彼は右近の姿を認めると、驚いた顔で目を見開いた。


「右近──!」


 彼は右近の元に駆け寄って膝をついた。そして、その大きな手で右近の両肩をガシッと掴む。


「俺が誰だか分かるか?」

「……魁、」


 右近がぽつりと答える。と、その男──魁は無骨な顔をくしゃりと崩し彼女を抱きすくめた。


「あんな無茶をしやがって──!」


 無精ひげが頬に当たってこそばゆい。腕の力も強すぎて、ちょっと体が痛いなと思う。しかし、彼の肌の温もりはとても心地よく、右近は抱きしめられるままになっていた。

 ふと、魁の存在をもっと感じたくなり、首筋に耳を押し当てた。彼の鼓動と息づかいが耳にじかに伝わってくる。それだけで右近はひどく安心した。

 まだ頭がぼんやりとしていて思考がまとまらない。ただ、彼の「あんな無茶」という言葉から、あの夜の出来事は夢ではなく、なぜか自分は生きているのだということだけは分かった。

 すると、魁がそろりと抱く手を緩めて体を離した。


「……本当に俺のこと誰だか分かっているか?」

「だから、魁」


 彼が離れてしまったことに不満を覚えつつ右近が答える。魁は、そんな右近を神妙な面持ちでまじまじと見た。


「柄にもなく大人しいな。普段なら、気安く触るなって振り払われそうだがな。打ち所でも悪かったか」

「思考が追いついていないだけだ。私はどんな風に見えているんだ」


 あらためて魁の口から自分の素行を述べられて、可愛げのない女だったなと再認識する。

 ただやっぱり今は心もとなくて、右近は魁の胸にしなだれかかった。


「お、おい、右近?」

「確かに、打ち所が悪かったのかもしれない」


 右近の口から小さな笑い声が漏れた。たじろぐ魁の様子が面白い。こんな魁が見られるのなら、たまには甘えてもいい気がする。同時に、少しずつ頭のもやが晴れてきた。

 彼女は魁に身を預けながら、「状況を教えてほしい」と彼に言った。


 魁は再び右近を抱き寄せ、落ち着いた口調で淡々とここまでの経緯を説明する。碧霧と紫月、そして兄の左近が助けに来てくれたこと、それでも力及ばず霞郷かすみのごうが鎮守府の支配下となったこと、そして水天狗たちは古閑森こがのもりの奥深くに逃げ延びたこと。また、勇比呂の死も彼女に告げられた。


「勇比呂が──」


 魁の口から告げられた事実は、目覚めたばかりの右近に大きな衝撃を与えるに十分な内容だった。にわかに言葉が見つからず、右近は体をわずかに震わせた。

 魁が労るように右近の真っ直ぐな黒髪を優しくなでる。


「完全に伯子の負けだが、おまえのせいではないし、誰のせいでもねえ。ただ、その責めは全て伯子が背負うことになる。損な役回りだが、上に立つってのはそういうもんだ。本人も十分に分かっている」

「……碧霧さまは、そういうお方だ」


 右近は悔しさで胸がいっぱいになる。誰よりも責任感が強いのは幼少の頃より見てきた。

 多くの者の思いを背負わされ、若き主は「伯子」として立っている。そうあるように、奥の方と右近の父である六洞りくどう重丸に育てられたと言っても過言ではない。

 そしてこれからも、自ら進んで他者の思いを背負っていくに違いない。


「私一人、ずいぶんと寝過ぎたな」


 右近はようやく自ら身を起こして魁から離れた。

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