9 そして、始まる
そこは
淡い光が一定の間隔で暗闇にふわりと浮かび、それがずっと先まで続いている。
どこかの「迷い道」かと思ったが、はっきりと進み続ける猿師を見て、そうではないことを確信する。
そう、これはきっと──。
「
「そうです」
猿師が頷く。碧霧はにわかに興奮した。
動物たちが勝手に行き交うような細く小さなものから、あやかしが使う大きなものまで、道の造りもさまざまだと聞いた。
「浦ノ川柵の近くに適当な
「次からって……、今度は俺一人で通れってことですか?」
「この道は、いつでも通れるように整えたので大丈夫です。入り方も後から教えます」
すでに指南が始まっているらしい。碧霧は緊張した面持ちで真っ暗な道のその先を注視した。
しばらくして
「着きました。人の国です」
「わりと寒い──。夏なのに?」
「いいえ、阿の国と時間のずれがあります。人の国はようやく春です」
「そうか、なるほど……」
空馬で遠乗りするほどの時間しかかかっていない。こんなに簡単に行き来できるのかと碧霧は驚いた。
夜空は星が少ないように感じるものの阿の国と何も変わらない。眼下に視線を移すと、夜空の星以上に光りきらめく地上が見えた。
「猿師、あれは? 何が光っているのですか?」
「あれは人の街です。人は電気というものを使って明かりを灯します。あちこちに街灯を置いて、街全体を灯しています」
「まるで昼のような明るさだ」
「ええ、資源は食い潰しますがね」
簡単に説明し、猿師は「さて、」と話を切り替える。
「
「はい」
「鬼伯を──、父君を恨んでおいでですか?」
ふいに投げかけられた問いに、碧霧は視線をさ迷わせる。恨んでいないと言えば嘘になる。しかし、実の父親を恨み続けることは意外と疲れる。自分自身さえも否定して何もかも壊してしまいたくなるほどに。
すぐに答えることのできない碧霧の様子を伺いながら、猿師は言葉を続けた。
「怒りは力となりますが、恨みは
「……」
猿師の言葉が身に染みた。三百年守り続けた藤花を殺された者の恨みはいかばかりか。彼はそれを全て飲み下したのだろうか。
しかし、猿師はそれ以上何も言わず、話を先に進めた。
「あなたには人の国についても学んでいただきたい。この国が必ずしも正しいとは思いませんが、学ぶところは多いはずです。紫月さまを隠すにしても好都合ですし。今日はまず──、その頭の角と瞳の色をなんとかするところからですね」
「ああ、鬼の姿ではまずい?」
「人に見られると厄介です。あやかしは見つかったらまず排除されると思ってください」
「排他的だな」
「人は人以外のものを信じていませんから。話が分かる者は、現代においてはごくごくわずかです。とにかく紫月さまのマンションに向かいましょう」
分からない言葉が出てくるが、いちいち聞いていたらきりがないので聞き流す。それに、今は何より紫月に会えるということで気持ちがたかぶっていた。
高度が下がるにつれ、地上の様子も見えてきた。大小さまざまな建物が見てとれるが、中でも目立つのが四角く高いいくつもの建物だ。通りには明かりをつけた乗り物が右往左往していて、まるで光の川のようだった。
「紫月はこんなところに住んでいるのか?」
「はい。紫月さまたちのマンションは少し街から離れていますが、この辺りは生活の場ではありますね」
猿師は街の上空を一回りしてから、ぐうっと方向を変える。と、ごちゃごちゃとした街から少し離れたところに、ぽつんと高くて大きな白い建物がある。
「あれがマンションという集合住宅です。最上階のワンフロアの部屋が紫月さまたちの家となります」
「ワンフロア、」
また分からない言葉。でも、聞き流す。とにかく、あの高くて大きなマンションと呼ばれる建物の最上階が紫月たちの部屋だということだ。
気持ちが逸る。屋上の様子がはっきりと見えてきた。
あれだけ高い場所であるにもかかわらず、草木らしきものがある。どうやら庭を再現しているようだった。人の国はなんでもありだなと感心する碧霧の目に、探し続けていた姫の姿が飛び込んできた。
夜風に豊かな黒髪をなびかせ、彼女は眼下の街並みをぼんやりと眺めている。人の国のふわふわと暖かそうな洋服に身を包み、頭に角はなく瞳は黒。すっかり人の国に馴染んでしまっているが、その横顔は変わらない。
「紫月っ」
たまらず碧霧はエイの背から紫月めがけて飛び降りた。いきなり空から降ってきた人影に、紫月がびくりと体を震わせる。
しかし、それが碧霧であると認めると、彼女は信じられないといった表情で彼を見つめた。
「葵……」
「やっと会えた──!」
彼女に駆け寄り、呆然としたままの「紫月」をまるごと抱き締める。彼女は、しばらく碧霧の腕の中で突っ立ったままだったが、ややして、もぞもぞと動き出した。
紫月は碧霧の背中に手を回し、何かを確かめるように彼の体をなで回した。
「葵だ。葵の気だ……」
「うん、偽物じゃないって」
言って紫月を見つめれば、彼女は瞳を潤ませてぎゅうっと抱きついてきた。
「もう会えないと思ってた」
「うん」
「黙って消えてごめんなさい。ずっと謝りたかったの」
「俺こそ、そばにいてやれなくてごめん。話も聞かず、月夜に帰した」
言って碧霧は紫月の頬に口づけを落とす。それから軽く唇に、首筋に。感情があふれかえって抑えきれない。もっと彼女を感じたいし彼女にも自分を感じて欲しいと思う。しかし感動の再会は、猿師の遠慮がちな咳払いであっけなく遮られた。
紫月が猿師に向かって、少し怒った口調で言う。
「先生、葵を連れてくるのなら連絡して」
「驚かそうと思いまして」
猿師が柔かな笑みを返す。そして、すぐさま部屋の方へと目を向けた。
「深芳さまと与平はいますか?」
「うん、二人してリビングでのんびりしてるわ。見ててうっとうしいからテラスに出てきたの」
「ははは、なるほど」
うっとうしいとは、どういうことだろう? 二人の会話を聞きつつ碧霧は頭を捻る。そんな碧霧の手を紫月が笑いながら引っ張って、部屋の中へと促した。そして「驚いちゃダメよ」と念を押す。
この後、碧霧は生涯の中で三本の指には入るであろう
「紫月、話したいことがたくさんある」
「聞きたい。私も、話したいこといっぱいあるの」
紫月が屈託なく笑った。どん底の状態は変わらない。けれど、今は再会できたことをただ素直に喜びたい。何より、二人こうして手をつないでいると、なんとかなるという気持ちになってくる。
傷つき止まっていた時間が、ようやく動き出した気がした。
2023.11.5 「沈海平反乱編」終
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