8 二度目の夏の来訪者

 戻ってきた守役から告げられた事実は、碧霧にとってあまりに信じられない内容だった。何百年も月夜の里を守り続けてきた六洞衆が里外へ追われ、「待ってる」と言ってくれた歌姫はまさかの行方不明。

 しかし、すぐさま里へ戻ろうとする碧霧を止めたのは、他でもない守役の左近だ。


 今は耐える時である。


 六洞家当主の言葉を碧霧に伝え、左近は守役を辞す覚悟で彼を止めた。動く時を見誤れば、沈海平の時のように返り討ちに遭うだけだ。そしてきっと、次はない。


 左近によれば、落山親子は千紫の指示のもと三番隊長の下野しもつけ与平とともに領外へ逃れたとのことだった。与平が一緒ならひとまず安心だが、その理由と行き先が分からない。その後、母親に式神を送るも全て無視された。

 碧霧は隠や左近に紫月の行方を探らせた。しかし、落山の山中でぷっつり足取りが途絶えている。母親が本気で隠すつもりで、与平がそれを実行した。分からなくて当然だった。

 しばらくして、「鬼伯旺知あきともが落山の方に手を出し千紫の怒りを買った」とか、「六洞衆の三番隊長が落山の方に恋慕して拐って消えた」とか、猥雑な噂が里中で広まっていると報告を受けた。おそらく適当な噂を母親が流したのだと碧霧は思った。


 西の領境は月夜の里から遠い。そもそも情報が届かない。

 そんな御座所おわすところから隔絶されたような生活を送ること数か月、冬の木枯らしが吹き始めた頃に意外な者が浦ノ川柵を密かに訪ねてきた。七洞家の美玲である。およそ洞家の姫が訪れるはずのない辺境の地へ、彼女は下男風の二つ鬼を二人連れてやってきた。


「申し訳ございませんでした」


 軍議用のテーブルと椅子が置かれただけの簡素な部屋で、美玲は入ってくるなり土下座をした。七洞夫人が美玲を伯子の正妻にするために動いていたという報告は受けている。また、そのせいで殺されたらしいことも。

 美玲の謝罪が紫月に関するものであることはすぐに理解できたが、具体的に何に対しての謝罪であるかは分からなかった。しかし、それを美玲に尋ねても、彼女もまた堅く口を閉ざした。

 七洞夫人の死は、すでに娘である彼女の知るところとなっているはずだ。しかし、彼女は悲しむことさえ許されず、こうして自分に対して頭を下げている。碧霧は、自分の留守中に月夜の里で起こった事件の深刻さを知る。同時に、そばにいてやれなかった自分を悔やんだ。


 美玲は、七洞利久から預かってきた密書を碧霧に渡し、連れてきた下男二人を紹介した。密書には、「遠く離れた領境では何かと世情に疎くなるので、七洞が伯子の目となり耳となって御座所の事情を伝える」といった内容が記されていた。

 下男の二人は利久が最も信頼する御用使いで、「良見りょうけん」と「多聞たもん」と名乗った。そして美玲は、「私はあくまで紫月につく」と言い残し月夜の里に帰っていった。




 春になり、阿の国を旅している魁から連絡がきた。

 西のくれない一族の者が会って話をするにあたり、条件を提示してきたのだ。

 一緒に右近の手紙も添えられていて、彼女は元気に魁たちと過ごしているようだった。左近はそんな妹の手紙を何度も読み返している。


 そして、さらに季節は過ぎて──、碧霧は二度目の夏を浦ノ川柵で迎えようとしていた。


 その日もなんとなく眠れず、彼は兵舎の外を散策していた。黒の武装束もすっかり日用着となっていたが、ここ最近の領境の情勢は落ち着いていた。小競り合いはあっても、互いに牽制し合っている程度で本気ではない。碧霧としてはありがたいばかりだ。

 その合間に、救護舎の環境を良くしたり、周辺地域の状況も見て回ったり、思いついたことをなんでもやっている。常に動いていないと二度と動けなくなりそうで、だから動いている。それだけだ。

 それでも、隙ができれば歌姫のことを思い出す。相談をためらうほどに自分は頼りなかったかと恨めしい気持ちにもなるし、そんな自分が情けなくてさらに腹が立ってくる。しかし、結局は何もできなくて、誤魔化すためにまた働く。


 ふと木の陰に気配を感じて碧霧は立ち止まった。するとそこに、一人の男が立っていた。短い黒髪を後ろに撫でつけ、格好は人の国の現代の服装であるシャツとズボンである。

 彼は碧霧に向かって静かに頭を下げた。


「碧霧さま、お久しぶりです。一年半ぶりでしょうか」

「猿師……」

「ご案内したい場所があります」


 驚く碧霧をよそに、彼は目の前に大きなエイの式神を出す。戸惑う目を碧霧が向けると、鋭い眼差しはそのままに親しげに笑って返された。どうやら「これに乗れ」ということらしい。


 ためらいながらも促されるままに碧霧はエイの背に乗った。彼が背の上に座ったのを確認すると、猿師は自らも乗り込みエイを浮上させた。


「猿師、突然──どこに向かっているのですか?」


 猿師はエイの頭上に座り、器用にエイを操って空を進む。訳が分からず、碧霧は彼の背中に疑問を投げつけた。猿師が片眉を上げて、口の端に笑みを浮かべた。


「奥の方に、あなたの指南役を頼まれまして」

「指南役?」

「はい。藤花さまをお守りいただくため、一年ほど前に私と奥の方とで交わした密約の一つです。もう一つは、紫月さまを人の国へ住まわせることでした」

「──!」


 さらりと告げられた事実に碧霧は言葉を失う。同時に熱いものが体の奥から込み上げてきた。


「紫月は人の国にいるのか? ずっと?」

「ええ、ようやくあちらの生活にも慣れてきたようで」


 そう答え、猿師は碧霧をちらりと一瞥した。


「本当に、何も知らされてなかったようですね」

「……はい」


 きまり悪く頷いた碧霧に、猿師の淡々とした声が響く。


「知らされなかったということは、守られているということです」


 猿師の言葉がちくりと碧霧の胸に突き刺さる。遠回しに己の力の無さを指摘されたようなものだった。

 同時に、碧霧は藤花のことを思い出して猿師に尋ねた。


「藤花さまはお元気ですか? 以前、体調が優れないと紫月から聞いたきりで……」

「姫は、伯の命令によりお亡くなりになりました」

「──え?」


 予想だにしていない答えに再び碧霧は絶句する。ごくりと生唾を飲んで猿師の背中を見つめれば、彼はじっと前を見据えたまま言葉を続けた。


「お子ができたのです。この春に無事出産を終え、伏見谷との盟約は幼い姫君が引き継ぎました。そして、お役御免となった藤花さまは、そのまま伏見谷で預かる予定でした」

「子供──」

「しかし、元伯家の実子である藤花さまを生かして野に放つことまかりならぬと、」

「そんな、母上が黙っている訳がない!」

「奥の方の再三の進言も及ばず、下った処分にございます。何かと間が悪うございました」


 どうして、こうまで自分は何も知らされていないのだろう。何もできない自分がほとほと嫌になる。

 藤の花のように艶やかで美しかった女性の姿を思い出し、そんな彼女がもうこの世にいないことが信じられなく、碧霧はぐっとこぶしを握りしめた。

 すると猿師が自嘲ぎみに口の端を歪めた。


「最後の最後で、私も藤花さまから何も知らされておりませんでした。私もまた、藤花さまに守られた身でございます」


 だからあなたと同じだと、猿師は小さく笑った。

 二人を乗せたエイが、とある山中へと分け入っていく。そしてそれは、木々の隙間に吸い込まれるようにして消えた。

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