7 最高の日

 人の国に「伏見谷」と呼ばれる妖狐の里がある。「九尾」と呼ばれる大妖狐が、三百年前に開いた谷である。百日紅さるすべり兵衛は、その九尾の最初で最後の弟子であり、東の端屋敷はやしきに幽閉されている藤花を守り続けている妖猿だ。


「案内人って先生のことだったの?」


 驚きながら紫月は廊下に立つ与平を振り返る。与平が「ええ」と笑って頷いた。そして彼は、親しげな笑みを妖猿に向けた。


「猿師、手間をかけさせて申し訳ない」

「久しぶりだな、与平。随分と前に手合せした以来か?」


 この妖猿は六洞重丸とは旧知の仲で、六洞衆の隊長格とも密かに交流がある。いつの頃からか「猿師」と呼ばれるようになり、もっぱらこの呼び名が定着していた。深芳が彼のことを「弟子」と呼ぶのは、元伯家の姫君だった当時の名残である。



「弟子殿、藤花は元気であろうか。やや子ができたと、紫月から聞いた」


 深芳は会えない妹の近況を開口一番に確認する。猿師が遠慮がちに頷いてみせた。


「はい。悪阻つわりがひどく、伏せっていることも多いのですが、お食事を頑張って召し上がっていらっしゃいます」

「そうか」


 そして深芳は何かを言いかけて、しかしそれを言葉にすることなく押し黙った。きっと「誰の子か」を聞きたいのだろうと紫月は思った。

 深芳と藤花は三百年前の「月夜の変」以来、会うことが禁止されている。藤花と猿師の関係は、当の本人たちが一切口にしないので、紫月もそうだと思っていても口にしたことは一度もない。なぜなら、藤花は伏見谷との盟約で二代目九尾に嫁ぐ姫であり、他の者との恋など許されないからだ。

 誰の子であるか分からないことは紫月の口から深芳に伝えてあるが、姉として納得できないのだろう。

 しかし深芳は、少し悩んだ様子を見みせた末に何も聞かないと決めたようで、最後は猿師に笑顔を向けた。


「藤花に体を大事にするよう伝えてほしい。妹を頼む」

「分かりました」


 猿師が笑って頷く。しかし彼は、すぐに真顔となり紫月と深芳に告げた。


「お二人は、このまま人の国へと向かいます。あちらに住む手はずを整えました。この猿が案内をいたします」

「人の国、」


 紫月は、深芳と顔を見合わせた。人の国のあやかしである彼が案内人として現れたのだから、行く場所はそこしかないのだろうが、そうだとしても予想していなかった行き先である。

 阿の国の鬼が人の国に住むことは、基本的にない。人には関わらないというのが、昔からの考えであり不文律的な掟でもある。

 科学という技を操る「人」という謎めいた種族への警戒心からだ。


 確かに、人の国へと逃れれば追っ手をかけることも難しくなる──。


「人の国とは──、千紫の考えか?」

「はい。先日、藤花さまの懐妊について相談した折りに頼まれまして」


 実のところ、今回のことは藤花の身の保証を盾に無理やり千紫に押しつけられた密約の一つである。しかし、そのことを猿師はあえて口にしない。

 それでも多大な迷惑をかけていることは十分に伝わっているようで、深芳は猿師に対して申し訳なさそうに頭を下げた


「弟子殿を面倒なことに巻き込んだ。あいすまぬ」

「いいえ。私は、あなた方の移送を頼まれただけです。ただ──、」


 ふと、猿師は含みのある眼差しを与平に向けた。


「部屋は言われた通りに用意したぞ、与平」


 そして彼は、同じ視線ものを深芳にも投げた。それを受け取った深芳が、きょとんとした目で与平を見ると、彼は片眉を上げて、きまりの悪い顔をした。


「新しく住む家について、猿師にいろいろお願いをしておりまして。三人で住むことになりますから」

「ああ、もしかして狭いのか? 私はどのようなところでもかまわぬ」

「いえ、そうではなく」

「?」


 猿師が面白そうに与平と深芳を交互に見ている。その様子を見て、紫月はにわかにピンときた。


「やだ、分かった! 聞くのは野暮ってやつね、先生」

「そういうことだ。本来なら、手間賃として何がどうしてこうなったのかを聞きたいところ──」

「千紫から聞いておらぬのか? が私に手を出したのじゃ。このままでは、あの男の側妻そばめにされかねぬゆえ、こうして与平に拐ってもらい逃げておる」


 猿師が言い終わらない内に、彼の言葉に被せる形で深芳が答えた。

 どうやら、猿師の言う「こうなった」の意味を、「逃げることになった」ことだと思っているらしい。しかしそうではないだろう。正しくは、「与平と深芳が深い仲になっている」ことだ。

 きっと猿師は、「与平の要望通りに部屋を用意」していて、それに気づいてしまったのだ。


 その時、与平がさっと庭に降りて縁側に座る深芳の前にひざまずいた。そして彼は、ふいに彼女の手を取る。


「深芳さま、」

「なんぞ?」


 深芳が戸惑いながら小首を傾げる。与平は傍らの紫月を一瞥いちべつしてから、深芳に視線を戻し静かに口を開いた。


「儂の妻になってくださいますか?」

「……え?」


 深芳は目を瞬かせ与平を見つめ返した。そして、しばらく考え込み、それから視線をあちこちに泳がせたあと、おそるおそる彼に尋ねた。


「おまえの言っているとは、好いた男の隣にずっと立っているあれのことか?」

「はい。あれのことです」

「日がな一日いちゃいちゃできるという、あれ?」

「そう、それです。新しい家では、二人の部屋を用意しました」


 みるみる深芳がゆでダコのように真っ赤になった。与平が穏やかであるが力強い眼差しで深芳を見つめる。


「人の国へ儂の妻として一緒に来てください。紫月さまも必ずお守りいたします。もう離しません」

「……」


 泣けばいいか笑えばいいか。くしゃりと顔をみっともなく崩し、深芳はこくりと頷いた。


「やった! 母さま!」


 紫月は思わず母親に抱きつく。

 なんてことのない、ごくごく普通の小さな幸せ。しかし最も縁遠いと思っていたもの。それを、母親がやっと手に入れた──。

 今日は最高の日だ。朽ちかけた廃屋の荒れ果てた庭先で、今から人の国へと落ちのびようとしている今、それでも紫月はそう思った。




 落山親子が下野しもつけ与平とともに北の領を去った日、鬼伯旺知あきともが御座所へ新たな鬼兵団とともに帰還する。旺知は彼らを直属軍として「近衛このえ衆」と命名し、月夜の里と周辺の警護を任ずる。近衛衆の大将である次洞じとう佐之助は、旺知の右腕として、その立場をさらに強固なものとした。


 一方、何百年にも渡り月夜の里を守ってきた里守さとのかみ六洞重丸は、北の領の領境周辺の警護を命じられる。洞家召し上げは免れたものの、事実上の里外への放逐となった形である。数日後、重丸は妻の初音を六洞家の屋敷に残して南の領境へと下る。


 碧霧が落山親子の失踪と旺知による六洞衆追放の知らせを耳にするのは、これよりほどなくしてからとなる。

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