5 雲隠れ

「加野が? 怪我をしているのか?!」


 左近は片膝を立てて那津に詰め寄った。那津が両手を上げて、落ち着くよう左近をなだめる。


「ご心配には及びません。思ったより傷も浅く、今朝も元気に朝食を召し上がりになりました」

「何かに巻き込まれたのか?」

「はい、おそらく。肩に大きな刀傷を負った状態で近くの小路をふらついていたところを手前どもがお助けした次第です。しかし、何もお話しなさらず、昨日は勝手に出ていこうとしていたところをお止めしました」

「勝手に?」


 およそ思慮深い加野の行動とは思えない。いったい何があったのか。


「すぐにでも会いたい。部屋に案内してもらえるか?」

「はい」


 那津に案内されて花月屋の奥へと進む。奥へ行くほど廊下にも仕掛けが施されており、主が通過した先から形を変える。その入り組んだ屋敷の造りは、少し「迷い道」を思わせる。ここの主人である那津という一つ鬼の底知れない力を感じる時である。


「こちらでございます」


 言って那津は部屋に向かって声をかけた。


「加野さま、よろしいでしょうか。お連れさまがお見えです」

「……どなたさまでしょう?」


 強ばった加野の声が部屋から返ってきた。不調法だと思ったが、左近は自ら名乗った。


「俺だ。左近だ」

「左近さま──?!」


 部屋の奥でぱたぱたと慌てる音がして、襖戸がすらりと開いた。そして、驚いた顔の一つ鬼の女性がそこから出てきた。


「なぜ……。西の領境の任を解かれたのですか?」

「いや。所用で戻った。それよりも、中で話そう」


 那津に目配せすると、心得た顔で那津が低頭しするすると下がる。左近は加野を部屋の中へ戻るよう促した。


 部屋は十畳ほどの広さで、小ぶりの箪笥たんすや棚が置いてある。他にも、部屋の隅には文机や鏡台があり、しばらく身を隠すには不便のない環境をちゃんと整えてくれていた。


「何があった? 刀傷を負ったと聞いたぞ。それに、勝手に出ていこうとしたとも」


 仮に不満な部屋であったとしても、それを理由に部屋を出ていくような者ではないことは左近もよく分かっている。

 すると、加野は震えながら額を畳にこすりつけた。


「申し訳ございません。私一人、逃げてまいりました!」


 突然の謝罪に左近は戸惑った。彼は、加野に「落ち着け」と言い聞かせながら尋ねた。


「一人も何も、おまえ以外に次洞じとう家の屋敷に誰がいる? 何があったのだ?」


 加野がほんの少しだけ顔を上げる。しかし目はまだ伏せたままである。彼女はあれこれとしゅん巡した後、震える声を絞り出した。


「七洞家の佐和さまと言うお方が……、次洞家の家頭に殺されました」

「殺された……?」

「はい。佐之助さまの留守中に訪ねていらっしゃいまして。そ、それで家頭が対応をしたのですが──」


 そこまで言って加野はぎゅっと目を閉じた。左近がずいっと加野に膝を寄せ、彼女を抱き締める。そして彼は、腕の中で震える加野に静かに言った。


「ゆっくりと。ゆっくりでいい。辛いだろうが、話してくれるか」

「はい」


 左近の腕の中、加野が両手を胸に当て深呼吸を一つする。彼女は蒼白な顔を伏せがちにしながらも、次洞家で起こった出来事を再び左近に話し始めた。


 彼女の話はゆっくりで丁寧ではあったが、端的で無駄がない。そう長い時間を要することなく左近は全てを聞くことができた。加野が少し安心した表情となり、ふうっと大きなため息をつく。そして彼女は、静かに体を起こして左近から離れた。


「失礼いたしました。もう大丈夫です。落ち着きました」

「そうか、」


 少し物足りなさを覚えながらも、彼女が「大丈夫」と言うのであればと左近は加野を解放した。そして気になったことを彼女に確認した。


「殺されるところは見ておらんのだな?」

「はっきりとは──見ておりません。しかし、この耳で倒れる音を聞き、この目で障子に飛び散る赤い血を見ました。あれはもう……無理です」

「そうか。たまたまそこに居合わせたのか?」

「いいえ、その前の日の夜に千紫さまの手の者から次洞家の様子を教えてほしいと連絡があったこともあり、少し立ち聞きを……」

「そのような危険なことを奥の方はおまえにさせていたのか?」

「違います。これは私の勝手な判断にございます。奥の方さまには、危険な真似は決してしないよう言われておりました」


 そして加野は懇願するような目を左近に向けた。


「殺された佐和さまのお話の内容は七洞の姫君を伯子の正妻に推挙するというもので、詳細は分かりませんでしたが、よい話ではないことだけは分かりました。そもそも、洞家夫人が罪人のように殺されるなどあり得ませぬ。とにかく早急に奥の方にお知らせせねばと思い、奥院へ向かおうと思っていたところです」

「無茶なことを──。それこそ御座所には次洞家の手の者がたくさんいる」


 左近は加野をいさめつつ、うーんと唸った。

 落山の姫君を差し置いて七洞の姫君を伯子の正妻に推挙するという話もさることながら、七洞家夫人の殺害とは穏やかな話ではない。七洞家では、夫人が行方不明になったと大騒ぎになっているのではないか。

 しかし、ここであれこれ考えていても、これ以上の状況は分からない。


「加野、おまえはここで身を隠せ。儂から親父に連絡して、奥の方に伝わるようにする。心配するな。それと──、佐一のことで話しておきたいことがある」

「何か、あったのでしょうか?」

「ああ」


 不安げな表情をする加野に、左近は深刻な顔を返した。




 それから左近は、沈海平であったことを手短に加野に話した。鬼伯により岩山がっさん霞郷かすみのごうが攻撃され、それにより水天狗は古閑森こがのもりへ逃げのびたこと、そして佐一も彼らとともに行ったこと──。

 彼女は左近の話を一通り聞き終えると、「あの子の判断に任せます」とそれだけ言って頭を下げた。


 その後、彼は父親の六洞重丸に式神を飛ばした。しかし、左近の連絡に応じて花月屋にやって来たのは、重丸ではなく四番隊長のかくれだった。


 那津が準備してくれた客間で、左近は自分が月夜に戻ってきた理由と加野をここで匿っていること、そして彼女から聞いた次洞家の話を手短に隠に伝えた。すると隠は、驚く様子もさして見せず、むしろ納得した表情で頷いた。


「おまえの話はだいたい分かった。加野という娘の処遇については、大将と相談してみよう。右近のことも直接話をしたかっただろうが、大将は目立つ行動を今は控えている」


 左近は黙って頷いた。つまりは、それだけ月夜の里が緊張状態にあるということだ。隠がさらに言葉を続ける。


「まず、紫月さまだが──、沈海平で見せた姫の変容については奥の方と大将に報告させてもらった。あれは、あの力は制御しないとまずい。何より、伯に知られるわけにはいかん」

「はい。碧霧さまも同じことを考えていると思います。それと、別れ際に紫月さまの様子がおかしいことも気になっておられたので、早々にこちらにお戻りになるかと」

「勘が鋭いのはさすがだな。ただ──、残念なことに肝心の姫がどこかに身を隠されている。実はな、落山の屋敷にはもう誰もいない」

「え?」


 左近は思わず鼻白んだ。

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