4 母親の涙
紫月が月夜の里に着いたのは、日がすっかり暮れてからだった。
風に乗ってぐんぐん進み、途中に一度だけ休憩した。四番隊長の
月夜の里の上空まで来て、紫月は隠に別れを告げた。落山の屋敷まで送るという彼の申し出は断った。碧霧に「屋敷まで送り届けろ」と命じられている隠は、当然ながらかなり渋ったが、そこは強引に押しきった。
落山の屋敷には帰らないからだ。帰る先は落山ではなく里中近くの西の外れ、与平の家だ。
周囲に気をつけて、こっそりと彼の家に近づく。吽助は直前で東の
(裏庭から入った方がいいかな?)
黙って出ていったこと、きっと絶対に怒っている。無事に戻ってきたとは言え、心配はさせただろう。
ここにきて、どんな顔をして入ればいいか分からなくなり、紫月は玄関前で立ち尽くしてしまった。しかし、いつまでもこのままという訳にはいかないので意を決して建てつけの悪い引き戸をおずおずと開ける。
と、玄関を入った上がりの廊下に深芳が座して待っていた。
「か、母さま」
「よう戻った」
背筋をまっすぐ伸ばし、両手をきちんと膝の上に置いて、母親はまじろぐことなく娘を見据える。
「た、ただいま……」
やっぱり怒っている。
紫月は、ばつの悪さを笑って誤魔化した。
深芳がさっと立ち上がり、裸足のまま玄関に降りてくる。そして、娘と向かい合う。娘の顔をじっと見つめるその鋭い眼差しが半端ない。
これは言い訳の一つでも言わないと許してもらえそうにない。それで紫月があれこれと考え始めた刹那、彼女は頬に強い衝撃を受けた。同時にパンッと乾いた音が響いて、その音で自分は叩かれたのだと紫月は気づいた。
「役に、立ったかえ? 刃を持つこともできぬ身で」
厳しい母親の声が響く。紫月は何も言い返すことができずに押し黙った。
誰にも迷惑をかけたくなくて、一緒に逃げることならできると、一人で沈海平へ行った。しかし、襲いかかってくる火矢を防ぐ
たくさんの命が奪われたし、香古を孤児にしてしまった。そして、水天狗たちは土地を奪われ、碧霧は失意のもと西の領境に戻った。
「勘違いするでない。役にも立たぬ身で行ったことに怒っているのではない。誰にも相談せず、周りに助けを求めなかったことに怒っているのじゃ。弱い者ほど一人で勝手に悩んで勝手なことばかりする。それが余計に迷惑をかけると、なぜ分からぬ」
母親の容赦のない言葉が紫月に突き刺ささる。折しも、騒ぎに気づいて与平が奥から出てきた。
「深芳さま、それぐらいに。紫月さまも分かっております」
彼は深芳をなだめつつ、紫月の両肩に優しく手を置いた。
「よく無事にお戻りになりました。しかし紫月さま、深芳さまがどれほど心配されたか分かりますね?」
紫月はこくりと頷く。そして、うつむいたまま小さく「ごめんなさい」と呟いた。母親の顔をすぐに見ることはできなかった。
深芳は何も言わない。当然だ、呆れて声も出ないのだろう。
しばらくして、紫月はそろりと顔を上げ、母親の様子を伺った。厳しい顔を向けられていると、そう思った。しかし、違った。
母親は泣いていた。
両手で顔を覆い、肩を小さく震わせ、声を押し殺して泣いていた。生まれてこの方、彼女が泣いたところなんて紫月は見たことがなかった。
だってそうではないか。自分の知る母親は、誰よりも美しく、何があっても負けることなく、そしていつでも偉そうで。初めて
だからこそ、彼女が泣く姿なんて想像もしていなかった。
「母さま、ごめんなさい。本当に──、ごめんなさい」
大粒の涙がぽたぽたと落ちた。もう泣かないと心に決めて、何度それを破っているだろう。何もできなかった自分が悔しくて、心配をかけた母親に申し訳なくて、涙がとめどなく溢れた。
玄関で大泣きする親子二人の姿は滑稽だったかもしれない。でも、ひとしきり泣いたら少し気持ちがすっきりした。
「深芳さま、紫月さま、とにかく家の中へ」
泣き続けていた二人が落ち着き始めた頃を見計らい、与平が家に入るよう優しく促す。
紫月は、目の回りをぐいっとぬぐって顔を上げた。母親が同じように袖口で目の回りをぐしぐしと拭いている。その様子を見て、与平が懐紙を取り出して、彼女の鼻の回りをふいた。
深芳が体を与平に預け、遠慮なく懐紙に鼻を押し当てチーンとかむ。普段では絶対に見られない姿である。
「……すっかり仲がいいのね」
「もともと仲がいいのじゃ」
二人の様子を紫月が茶化すと、ぐずぐずと鼻を鳴らしつつ母親が負けじと言い返してきた。
誰からともなく、自然と笑いが出た。笑い出したら止まらなくなって、またしても涙が出てきた。
しかしそれも束の間、与平がぴくりと顔を強ばらせ、外の様子を伺うように視線を巡らせた。
「紫月さま、誰かと一緒に帰ってきましたか?」
「ええ、四番隊長の隠さんと。でも屋敷には戻れないし、ここに来たかったから里の入口で強引に別れたわ」
「なるほど……。それは、相手が悪かった」
与平が得心顔で苦笑する。深芳が「つけられたか?」と呟くと、彼は「おそらく」と人差し指を口元で立てた。そして彼は、声をひそめて唐突に紫月に告げた。
「紫月さま。今宵、三人でここを出ます。すぐにご準備を」
「──え?」
「もともと紫月さまが戻り次第そのつもりだったのです。奴はまだ何も知らないはず。紫月さまが屋敷に戻らず儂の家に来たことに、今は面喰らっていると思います。その隙を突いて早々に出発しましょう」
思わず紫月は残りの涙を引っ込めた。与平はまだぐずぐずと鼻を鳴らしている深芳を胸に収めつつ、紫月に頷いて見せた。
一方、左近が月夜の里に着いたのは紫月より遅れること半日後、次の日の朝だった。
自分は里にいないはずの者なので、人目を避けて花月屋へと向かう。ここでしばらく密かに滞在し、御座所のあれこれを探るつもりだった。
この店のいいところは、勝手口であればいつで出入り可能なところである。細い路地を入り、民家の板塀の小さな門をくぐると、くりっとした目の童女が出迎えてくれた。
三日ほど密かに滞在したいという用件を伝え、小間で待たされることしばらく、次に現れたのは一つ鬼の店主、那津であった。
「お久しぶりでございます。左近さま」
「突然ですまないが、六洞家に戻るわけにいかなくてな。しばらく世話になりたい」
「もちろん、承りましてございます。それよりも、会っていただきたい方がございます」
「……誰だ?」
左近が眉を潜めると、那津は「はい」と視線を伏せた。
「背中の傷がようやく癒えまして。加野さまにございます」
「加野が?」
思わず左近は中腰になった。
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