9 関わってはいけない者

「おまえはさっきの──!」


 碧霧はふらつきながらも立ち上がった。慌てて左近が支えに入るが、その手を振り払い、彼は白銀の瞳を睨んだ。


「誰だ、おまえは?!」


 碧霧の問いかけに、紫月は首を傾げるだけである。さっき話しただろうと言わんばかりだ。代わりに左近が碧霧に答える。


「あの紫月さまが、疾風はやてと一緒に負傷した碧霧さまを森へ連れ戻してくださったのです。傷を癒されたのも姫です」

「右近は? そもそも紫月は右近を癒していたはずだ」


 すると紫月が白銀の瞳をすいっと細めた。


「大地の加護を与え黄泉よみからの干渉を排除した。しばらく深い眠りにつくが、心配はない。隣の男は無理だ。死者の黄泉よみ帰りはできぬ。かの国は、いにしえより不可侵と決まっている」

「……雨を降らしたのもおまえか?」

「今さら。さっき見ていたではないか」


 確かに見ていた。けれど、あれは夢の中だ。どうやら、夢もうつつも関係ないらしい。

 白銀の瞳を持ち、死に瀕した者に干渉し、天候を操る──。あやかしの類いではない。もっと超越した何か。


「紫月の体から出ていけ」


 碧霧が唸るように言った。あやかしが何かに取り憑かれるなんて、よほどのことだ。

 しかし、白銀の瞳の紫月は感情を全く感じさせない表情で笑い、ことりと首を傾げた。


「なぜ? 娘が望み、の呼びかけに応じた。春の夜と同じように」

「春の夜?」

「おまえもいたではないか。何度も名を呼んでいた」

「……」


 碧霧は春の宴のことをふと思い出した。月詞つきこと披露で意識を失って目覚めた時、彼女は「不思議な白銀の髪の子供」の夢を見たと言っていた。


(そうだ。確かあの時、名前を聞く覚悟を問われたと紫月は言っていた。俺と同じだ)


 髪の色は分からないが、瞳の色が同じ白銀。おそらく彼女の夢に出てきた「不思議な白銀の髪の子供」と同一と考えていいだろう。

 夢のことは少し気にはなっていた。紫月がなんとなく話したがっていないのが分かったから。

 しかし今、この状況を考え合わせると、どうやら紫月はなんらかのやり取りを「白銀の子供」と交わしたと考えていい。


「……紫月はおまえの名を聞いたのか?」

「否。覚悟がないと。であれば、娘はただの器であり、伝える者。ゆえに、娘と深くつながっているおまえを連れてこいと言った。結局、娘はおまえに呼び戻されてしまったが」


 そんなことを──。どうりで紫月が言い渋るはずである。

 彼女が白銀の子供に対して「覚悟がない」と答えたのは、偶然だろうか。いずれにせよ、紫月は呼びかけには応じたが、名を聞くことは拒否したということになる。そして、となりとなった。


(呼びかけに応じただけで体に憑かれるのなら、名を聞いたらどうなる?)


 どくりと碧霧の心臓が鳴った。器である彼女の中に「白銀の子供」がいる。

 碧霧の胸の奥に、ざわりとした不安が沸き起こる。関わってはいけない者に関わったのではという嫌な予感だ。


 しかし一方で、今の白銀の子供とのやり取りで、一時的であったとしても彼女を取り戻す方法も見通しがついた。夢の中で、紫月は呼び戻されたと言っていた。

 呼び戻したのは、他でもない自分である。


 碧霧は白銀の瞳を鋭く見据え、彼女の元へ歩み寄り対峙する。白銀の瞳が興味深そうに碧霧を見上げた。


を拒絶するか、わっぱ

「紫月を返して欲しいだけだ」


 ただ単純に、彼女を呼び戻せばいい──。

 刹那、碧霧は紫月のあごをすくい上げると、その唇に深く口づけた。そして、そのまま自分の感情を強引に押し付ける。いつもの紫月に対する愛情表現──。と言えば、聞こえは良いが、これは全てのものから彼女を奪い自分のものとする呪詛のようなものだ。


 紫月であってそうでない者は、驚いた様子で白銀の瞳を見開いたが、すぐにすうっと目を閉じた。

 彼女の手がぴくりと動き、碧霧の袖を掴む。碧霧は紫月から顔を離すと、深紫色に戻った彼女の瞳をじっと見つめた。


「誰だか分かる?」

「……葵」


 ぼんやりした声で紫月が答える。その瞳の中に映る自分の姿に碧霧は満足する。彼は、ほっと胸を撫で下ろしつつ紫月をぎゅっと抱きしめた。


「終わったよ、紫月」

「え?」

「ありがとう。紫月のおかげで助かった。右近も無事だ。森も、もう大丈夫だ」


 紫月は困惑ぎみに碧霧を見つめ、それから周囲の様子を確かめた。

 必死で治癒をしていたはずの右近は、失くなったはずの右腕が元に戻り、体の傷も消えて、今は静かに眠っていた。いつの間にか降り始めた雨は、炎と森の気を鎮めているのが分かる。

 紫月は空を仰ぐ。降り注ぐ雨だれが彼女の顔を優しく濡らした。


(おまえたちは誰に呼ばれたの──?)


 雨が降るような天候ではなかった。空にも大地にも殺気が充満し、沈海平しずみだいら全体がひりひりした空気に包まれていた。


 誰かが雨をここに呼んだ。


 さすがに自分でもできないことだ。右近にしても、手の施しようがなく、腕の再生などあり得ない。

 ややして、紫月は助けを求めるように碧霧を見つめた。


「右近のことも、この雨のことも──、何も覚えてないわ」

「うん。分かっている。今は気にしなくていい」

「でもっ、本当に何も覚えてないの!」


 取り乱した声で訴え、紫月は周りにいる他の面々に同じような視線を投げる。しかし、碧霧に遠慮をしてか、誰もが複雑な表情で口をつぐんだ。

 紫月は碧霧にすがりついた。


「葵──、何があったのか教えて」


 それでも碧霧は言い渋る。しかしややして、彼はため息混じりに答えた。


「白銀の子供だと──思う」

「……白銀の、子供」


 まさか。紫月は驚きのあまり声を失う。

 夢のことを忘れたわけではない。しかし、あの子供とはあれきりだと思っていた。

 同時に、自分の記憶がなくなっていることと、その間に起きたあれこれについて彼女は理解する。


「私の体を、使ったのね……?」


 碧霧は答えない。しかし、その表情は「是」である。

 紫月は、呆然とした面持ちで視線をさ迷わせた。自分の体を使われたことも衝撃だったが、それ以上に、あの子供を碧霧に会わせてしまったことにめまいがする思いだった。

 彼に「連れてこい」と一方的に言われた。しかし、直感的に「嫌だ」と思った。だから夢の話も碧霧には詳しく話さなかった。


「あの子と何を話したの? そうだ、名前は──っ」

「紫月、後で。これ以上は駄目だ」


 碧霧が少し強い口調で紫月を止めた。彼女はびくりと顔をこわばらせ押し黙る。

 彼の目が「これは面前で話すことじゃない」と言っていた。


 半ば碧霧に押し負ける形で、紫月はこくりと小さく頷く。

 碧霧は、紫月をぐっと抱き寄せると、真比呂たちに向き直り、表情をあらためた。


「真比呂、佐一や魁たちもここへ。伝えたいことがある」


 紫月とはちゃんと話し合わないといけない。しかし、今はその時ではない。その前に、まず先に進めるべきことが他にある。

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