3 霞郷からの脱出

 右近たちは方々に散らばり、それぞれの家を回って郷の者を起こして回った。事情を飲み込めない者、ここに残ると言い張る者、あれこれと余計な準備を始める者など、反応はいろいろで、それらをなだめすかして岩城の屋上に集めるのはひと苦労だった。

 そして、全ての郷の者を集め終えた頃には、開始から一刻はゆうに過ぎていた。


「思った以上に時間がかかったな」


 眠たそうな香古を片腕に抱きながら、やれやれと勇比呂が嘆息する。屋上で出発を待ち続けている魁もさすがに苛立ちを隠せない様子だ。

 しかし、いざ出発するとなって、そこで再び「戦わないのか」という声が上がった。


「ここを捨て、宗比呂おうが月夜から戻ってきた時にどう説明する気だ?」

「そうだ、横暴な鬼伯に屈するなんて──」

「だいたい伯子と姫はどうしたんだ? なぜ助けに来ない?」


 真比呂が落ち着いた様子で、しかし強い口調で皆に説明する。


「伯子は今、西の領境に遠征中でそれどころじゃない。紫月はまつりごとに関わっているわけじゃないから、そもそも知らされていない可能性が高い。何より、今ここに攻撃を仕掛けてくるのは鬼伯の軍だ。月夜から助けは来ないと考えていい」

「だからって戦いもせず諦めるのか! 一矢報いるくらい──」

「できねぇよ!」


 業を煮やした魁が強引に真比呂たちの会話に割って入った。そして、黒の武装束に着替えた右近を親指で軽く指差す。


「右近も月夜の鬼だ。こいつに敵う奴がここに何人いる? これ以上の強い奴が部隊で攻めて来るって言ってんだぞ。一矢報いるだと? かすり傷さえ負わせられねえ。ただの犬死にだ!」

「西のが知った口を!」

「やめろ!」


 真比呂が珍しく声を荒げて仲間を制止する。そして魁に向き直り、頭を下げた。


「すまない。助けてもらう身で蛮鬼なんて」

「……いや、俺も言い方が悪かった。旅で方々を巡っていれば、もっとひどいこともある。気にしてねえ」


 なんとなく気まずい空気が流れた。しかし、抗戦だと息巻く水天狗たちの気持ちに冷や水を浴びせることはできたようだった。

 とその時、偶然にも式神が二つ真比呂の元に舞い降りる。一つが蝶、もう一つがナナフシだ。


「……紫月と碧霧からだ!」


 真比呂が驚きながら昂った声を漏らすと、水天狗たちは一様にざわめいた。

 蝶とナナフシが真比呂の手の平にふわりと止まり、そのまま花びらと小枝に変わる。

 これは、機密性の高い式神だ。時間はかかるが、人の国ほど式神の技術が発達していない阿の国では敵に見つかりにくく確実に届く。内容も思念で託すので漏れることがない。

 じっと伝言を受けとる真比呂に、香古が無邪気に尋ねた。


兄々にいに、しづ姉々ねえねたちは何て?」

「みんな逃げろと。そして──、二人とも沈海平に向っている」


 香古に答える形で真比呂が皆に告げる。次の瞬間、わあっと歓声が上がった。

 まるで戦いに勝ったような喜びようだ。しかしようやく、皆の気持ちが一つになった。

 真比呂が大きく頷いて、全員に呼びかける。


「出発する。先頭は俺と佐一だ。全員、後に──」


 その時、


 遥か上空で真っ赤なかがり火が一斉にきらめいて帯状に広がった。

 なんだ? と誰もが真っ赤に燃える夜空を仰ぐ。

 刹那、無数の炎たちが霞郷かすみのごうに向かって一直線に飛んできた。


「やべえっ、伏せろおおっっ!!」


 魁が叫ぶ。全員がとっさに頭を抱えてうずくまった。

 瞬きほどの静寂──。次の瞬間、炎の玉が郷の西端に降り注ぎ、地響きのような轟音とともに大きな爆発が起きた。

 郷の端で火の手が上がる。一体何が起こったのか。誰もがその場に立ち尽くした。


「なんだ今のは?!」

「分からねえ! くそっ、来やがった──」


 遠くで燃え広がり始める炎と煙。それを呆然と見つめる真比呂の隣で魁が唸るように言った。

 佐一が蒼白になりながら叫んだ。


「月夜の鬼兵団です! 早くしないと次が来る」


 再び夜空に炎がぽつりぽつりと灯り始める。今度は少し、こちらに狙いが向いているように見える。


「野郎、少しずつ狙いを調整してやがる」


 魁が笑いで口元を歪めながら吐き捨てた。そして彼は大声で叫んだ。


「真比呂、佐一、行け! 殿しんがりは俺が持つ。他は全員、上下左右からの攻撃に備えろ」

「おうっ!」


 翼を広げた真比呂と空馬にまたがった佐一が夜空へと舞い上がる。それに続いて水天狗たちが次々と飛び立つ。香古は右近の馬に乗せられた。


ととも!」

「みんなを送り出したら儂も行く。さあ、行け」

「やあっ」

 

 泣いて暴れる香古を抱き締め、右近もまた空へと飛び立つ。再び夜空に真っ赤な炎の帯が広がる。


「早く行け! 来るぞ!!」


 怒号と悲鳴が入り混じる中、再び炎の玉が霞郷に降りかかった。

 どどどんっ!! という激しい音とともに今度は屋上の一部が爆発する。


とと! とと──」


 香古のか弱い声は、しかし、夜の闇に吸い上げられた。


 香古を抱いて、右近は水天狗たちと走る。

 今夜は月が細く、闇夜に紛れて逃げるには好都合だった。あれだけ激しく火矢を打ち込んでいる内は、味方を城内に突入させることもできないだろう。せいぜい空っぽになった霞郷を攻撃すればいい。

 眼下に広がる真っ暗な平野の先、うっそうとした闇の塊が見えてくる。古閑森こがのもりまでたどり着くことができれば生き延びる可能性も見えてくる。


 しかし、そう右近が思った矢先、


「逃がすかああ!」


 夜空の闇から何かが突っ込んできた。わずかばかりの星明かりに照らされ刃が光る。

 右近と同じ黒の武装束に身を包み、空馬にまたがった二つ鬼が、水天狗たちに狙いを定めて刀を振り上げた。

 とっさに右近が反応し、彼女は香古片手にその鬼兵と切り結ぶ。男は右近が鬼の女であることを認めると、にやりと笑った。


「これは、六洞りくどうの姫君とお見受けする。月夜の鬼が、このように水天狗を庇い立てするなど、御父上に迷惑がかかるのでは?」

「それがどうした。次洞じとうの私兵が口出しするかっ」

「もはや我らは私兵ではない」


 言って男は右近の刃を押し返した。

 そして、口の端に不適な笑みを浮かべた。


「六洞衆に対抗するため我らは集められた。おまえらなど、過去の遺物よ」


 男が片手を上げる。その手に青白い炎が燃え上がる。


「水天狗もろとも火矢に打たれて燃えてしまえ」

「しまった──」


 これは、標的の場所を知らせる合図だ。男が馬首をひるがえし、一気にその場から離脱する。

 刹那、さっきまで霞郷に降り注いでいた火矢の一部が、こちらに向いた。


「ちっ!」


 右近はとっさに刀を持つ手を前に突きだし術を繰り出す。無数の火矢が打ち放たれたのと、右近の目の前に分厚く広範囲の結界が作られたのとが同時だった。


「右近!」

「右近さん!」


 先頭の真比呂と佐一が振り返って叫ぶ。次の瞬間、水天狗たちの列に火矢が直撃した。

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