7)沈む平野

1 誘いの声

 沈海平しずみだいら奈原の里にある居酒屋「まほろば」は、多種多様なあやかしであふれかえる場所である。月夜の里の「花月屋」の食事処と似ているが、あそこよりもっと陽気でくだけた雰囲気だ。


 その「まほろば」の一角、旅商人の一団が場所を占拠して酒盛りをしていた。褐色の肌に赤い髪、そして弓なりに反った頭の角。西の領を統治する一族、くれないの鬼たちである。団員たちは阿の国中を旅するせいか、みな体格がガッチリした者ばかりだ。


 そんなむさ苦しい紅の男たちの中、色白の中性的な月夜の鬼が一人だけ混じっている。きりっとした細い眉に、すっきりとした目鼻立ち。一つに結んだ長い黒髪が、乳白色の小袖にさらさらとこぼれ落ちている。

 月夜の女武人、六洞りくどう右近である。


「さあ右近、もっと飲めって」

「そうだぜ。全然減ってねえよ」

「さっきから十分に飲んでるって。ちょっと、入れようとするなっ」


 これ以上酒を注がれないようぐい呑みの口を手で塞ぎ、右近は軽く紅の鬼たちを睨む。

 六洞衆の中で育った彼女にとって、いかつい鬼に囲まれるのも男臭いのも、さして気にはならない。ただ──、


「おい、右近が迷惑してるだろ。おまえら向こうに行ってろ」


 右近に絡んでくる若い鬼たちを、隣に座る花柄の小袖を着た男が片手を振って追い払った。揉み上げから続くひげをなでつけ、彼は人懐こい笑みを右近に向ける。反応に困った右近は、なんとも言えない中途半端な顔をその男──魁に返した。


 右近が沈海平に来て、早いもので一月ひとつきが経とうとしている。

 月夜の露店商・独歩どっぽ伝手つてで奈原の露店商を頼り、なんとか旅立つ前の魁を捕まえることができたのは幸運だったと言えた。

 喧嘩別れをしてしまった魁と再会するのは少し緊張した。実のところ、何を言おうかあれこれと思い悩んでいたのも事実だ。

 しかし実際に会ってみると、魁は全く気にしていない様子で「やっぱり来たな」と右近に笑っただけだった。緊張の再会があっけなく終わってしまったことに、右近は拍子抜けしてしまった。


 なんのことはない。気にしていたのはこちらだけ。魁は、とっくに忘れてしまっている。

 ほんの少し恨めしい気持ちになったのは──絶対に内緒である。


 それから右近は、魁を真比呂に引き合わせた。同時に、鎮守府の佐一にも同席してもらった。彼は、赤鉄の取引について碧霧から目付役を任されている。彼にも話し合いに関わって欲しいと考えたからだ。

 

 ちなみに佐一は、月夜との和平締結以降、霞郷かすみのごうに入り浸っているようで、めったに鎮守府には帰らなくなっていた。右近が郷に来てからも、ずっと岩城で寝泊まりしている。

 府官長の平八郎がよく黙っているなと思って尋ねると、「伯子と繋がっている養子なんて、危なっかしくて側に置きたくないんでしょう」と返ってきた。

 確かに姉の加野も今は月夜の里で暮らしているし、佐一にすれば鎮守府に留まる理由がない。


 一方で、右近は魁の旅商団の酒盛りにたびたび呼ばれるようになった。魁に「俺の仲間を紹介したい」と言われたのが最初であるが、それとあわせて「こうした付き合いが交渉事には大切なんだよな」と軽く脅されたためである。


 これも若き主のためと、しぶしぶ酒盛りに付き合うこと数回、今ではすっかり馴染みの顔となり、飲み仲間だ。

 旅商団の団員は、気さくな者ばかりだった。着飾らない物言いも、六洞衆の隊士たちと似ている。姿形は違っても同じ鬼、そしてあやかし。彼らと話をしていると、西の領境で争いが絶えないことが嘘のように思えた。


 そうした中、伯子とともに西の領境へ出征するという兄の知らせを受けた。次の日、そのことを魁に伝えると、彼は複雑な顔を見せながらも、「おまえのせいじゃねえ」と笑ってくれた。たぶん、自分がひどく深刻な顔をしていたからだと思う。


「あら右近、もう飲まないの?」

「凛香さん、これ以上はさすがに。今日はこれで帰ります」


 発泡酒を片手に持った赤髪の女性が右近に話しかけてきた。凛香は旅商団で唯一の女だ。右近と違うのは、その女っぷりの良さである。色香漂う豊満な体に、包容力を感じる魅力的な笑顔が半端ない。

 凛香は右近の「帰る」という言葉を受けると、ふわふわの赤髪を指でくるくるいじりながら茶化すような顔を魁に向けた。


「なんだい、魁。あんたの口説き方が悪いんじゃないの?」

「右近は真面目なんだ。凛香と一緒にするな」


 凛香と魁は姉と弟のような関係らしい。が、右近は本当だろうかと少し疑っている。

 さらに言うなら、彼女と魁が仲睦まじく会話をする様子を見るのも実はちょっと苦手である。なんだか落ち着かない気持ちになるのだ。しかし、このことも絶対に内緒だ。


「ちゃんと寝ないと朝起きられないので。明日も仕事がありますし」


 右近が笑って答えると、凛香がつまらなそうな顔をした。

 実のところ、仕事はもうほとんどない。佐一がしっかり取り仕切ってくれるし、水天狗たちに対しても魁に対しても口出しする必要がない。

 そろそろ月夜に戻っていい頃合いであるのは確かだ。

 ただ、なんとなくずるずると沈海平に、魁の近くに居座っている自分がいる。


「じゃあ、私はこれで」

「近くまで送っていく」


 右近が席を立つと、魁も当然のように立ち上がった。


「か弱い娘じゃあるまいし、絡まれても自分で対処できる」

「だからだ。おまえ相手じゃ、絡んだ奴が気の毒だ」


 有無を言わせない口調で言って、魁は右近と一緒に店を出てくる。右近としては──まあ、悪い気はしない。

 二人並んで星空の下を歩く。さすがに夜も深まって奈原の通りを歩く者もまばらである。


「馬は?」

「里の外に適当に放してある。呼べばすぐ来る」


 どうでもいい会話が心地いい。いまだに旅商人という以外は何も知らないが、魁とはずいぶんと親しくなった気がする。魁だけじゃない、彼の仲間とも水天狗たちとも親しくなった。


 ふと、魁が歩く足を止めた。なんだ、と思って右近も止まる。

 右近が怪訝な顔を魁に向けると、彼はためらいがちに口を開いた。


「近々、奈原を発つ。いろいろ長居をし過ぎたからな」

「……」


 いつかは来る別れの時。それくらい分かっている。けれど、右近はすぐに言葉を返せずにいた。こんな時、気の利いたセリフ一つ言うことができない。


「今度は……、いつ会える?」


 代わりに、未練がましい女のような言葉が口からついて出た。情けなさで恥ずかしくなり、右近は思わずうつむいた。

 魁が視線を巡らせたあと、大きく息をつく。そして、意を決した様子で彼は再び口を開いた。


「なあ右近、一緒に阿の国をまわらないか?」


 さざ波のような通りのざわめきとともに魁の言葉が右近の耳に届いた。

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