5 愚かな女

 いきなり声を荒げる佐和に加野は驚いて息を飲んだ。

 そんな彼女に家頭は「出ていけ」と目配せをする。そして、佐和には「まあまあ」と大袈裟なほど穏やかな笑みを返した。


 加野は一礼して、素早く部屋を出ていく。しかし彼女は途中で引き返し、柱の影に隠れて中の様子を窺った。

 穏和な家頭の声と、苛々とした佐和の声が部屋から聞こえてきた。


あるじの佐之助はあいにく出かけていてしばらく戻りませぬ。私が話をお聞きしましょう」

「いないとは──! では、美玲を伯子の正妻に推挙するという話をあなたから夫の利久にしてください!」

「と、言うと? この件に関しては、利久さまには内密にとお願いしていたはずですが」

「偽の手紙が夫の手に渡り、私が書いたものだとばれてしまったのです。美玲のためにしたことだと説明をしたのですが、夫には全く取り合ってもらえず、私は家を追い出されました。密約が事実であると口添えしてくだされば、夫も納得するはずです」


 家頭が「なるほど」と笑った。


「つまり、手紙がなぜか利久さまに渡ってしまい、佐和殿は今回の件を洗いざらい話したと」

「はい」

「そして、利久さまは全く取り合わなかったと」

「はい」


 しばし沈黙が流れた。しかしややして、あざけるような家頭の声が響いた。


「小間使いと言われていても、さすがは七洞家当主、冷静な判断です。我ら次洞家と事を構えるのは割りに合わないと思ったのでしょう。あなたを七洞から追い出したのは、せめてもの温情ですかな」

「それはどういう意味──」


 刹那、ひゅんと空を切り裂く音がした。と同時に、障子戸の白い和紙に鮮血がばたばたと飛び散った。


「!」


 叫び声が飛び出しそうになった口を加野はとっさに両手で押さえた。誰かがどさりと倒れる鈍い音がした。


「利久に追い出されたのであれば、そのまま逃げれば良かったものを。どこまでも愚かな女よ」


 冴えざえとした家頭の声が響く。もう佐和の甲高い声は聞こえない。気配さえ消えてしまった。


 この場から離れないと──。


 加野は素早く踵を返した。

 しかしその時、廊下の板がみしりと軋んだ。


「誰だ?!」


 その声に加野は弾けるように身をひるがえす。部屋から、血糊の付いた刀を片手に険しい顔の家頭が現れた。


「待てっ!」


 伸びてきた家頭の手をすり抜け、加野は庭へと裸足で飛び出した。

 背後で刃がぎらりとひらめく。直後、背中に焼けるような痛みが走り、彼女の体はぐらりと傾いた。

 逃げないと殺される──!

 加野は傾く体を寸でのところでぐっと踏みとどめる。そして、力を振り絞って手の平から鬼火を繰り出し、体をねじり彼に向かって投げつけた。

 目の前で青白い炎がぜ、まさに刀を再び振り下ろさんとしていた家頭に直撃した。


「ぐわっ」


 怯んだ家頭を横目で見つつ震える足を夢中で動かし、彼女は塀を飛び越えた。外の通りにぼたりと落ちる形で着地して、しかし、すぐに歯を食いしばって立ち上がり、加野は走り出した。


「誰かっ、女が逃げた!! 捕まえろ!!」


 遠くで家頭の怒鳴り声が聞こえた。

 背中が燃えるように熱い。痛みで意識がかすむ。


(左近さま──!!)


 今頃は西の領境にいるであろう一つ鬼の名を心の中で呼ぶ。自分がどこに向かおうとしているかも分からないまま加野はふらつく足を叱咤して走り続けた。




 紫月が目を覚ましたのは日も傾き始めた頃だった。

 何もかも忘れて眠り続けていた。起きたとき、ここがどこであるか、どうしてここにいるか、思い出すのにそれなりに時間がかかった。


 家の中はしんっと静かである。与平は御座所おわすところに行っているのだろうか。そして自分はどれほど眠っていたのだろう。

 紫月は起き上がると、そろりと部屋を抜け出して、誰の気配も感じない家の中を見て回った。

 まず、小間で波瑠が寝かされているのを見つけた。腹部に怪我はしているものの命に別状はなさそうだ。彼女はほっと胸を撫で下ろした。

 紫月は、波瑠を起こさないよう気をつけながら彼女の傷口に治癒ちゆを施した。


 次に居間を覗くと、今度は深芳を見つけた。彼女は居間の適当な所にころりと横になっていた。丈の合わない古びた小袖は、おそらく与平の母親の物だ。栗色の髪を畳に放り投げ、突っ伏すような形ですやすやと眠っている。昼間からこんな無防備にうたた寝をする母親の姿は珍しい。

 安心しているのと、疲れているのと両方なのだろう。その寝顔を見つめながら、紫月は旺知の「さあ選べ」という言葉を思い出す。


 母親が自分の身代わりになった。


 彼女が姿を見せた時、詳しいことは聞かなかったし、聞けなかった。聞いたところではぐらかされるのも目に見えていた。

 はっきりしていることは、自分は母親を残して一人で逃げたということ。結果的に、彼女を差し出すことを選んだようなものだった。


 込み上げてくる涙を、ぐっと堪えて唇を噛み締める。

 泣いては駄目だ。ここで泣いては母親の覚悟を無駄にする。

 彼女に「負けるな」と言われたのだ。今すべきことは泣くことじゃない。

 自分が今、やらなければいけないことは──。


沈海平しずみだいら、」


 紫月は最も重要なことを思い出す。

 沈海平が攻撃される──。


 ぶるりと身震い一つ、ぼんやりとした気持ちが一気に目覚めた。旺知は「今夜、沈海平に兵を出す」と言っていた。自分が眠っている間に、おそらく旺知は兵を動かしたに違いない。

 紫月はいてもたってもいられなくなった。あそこには、真比呂や妃那古、そして勇比呂や香古がいる。


 千紫や与平は知っているだろうか。もし、知らないのなら──と考えたところで、彼女はすぐに思いとどまった。なぜなら、これは北の領を統治する鬼伯がしていることなのだ。

 臣下の立場にある者が下手に動けば反逆となる。唯一、息子である碧霧なら止めに入ることができるかもしれないが、彼は西の領境に行っている。あっちだって待ったなしの状況なのだ。呼び戻すなんてできない。


「……私が行くしかない」


 真比呂たちを鬼伯と戦わせては駄目だ。きっと彼は容赦しない。でも、危険を知らせ、一緒に逃げるだけなら私にもできる。

 これ以上、誰にも迷惑をかけたくない。そして何も失いたくない。


 紫月は、深芳を起こさないようそっと居間を離れる。最後に、「行ってくるね」と心の中で呟いた。

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