6 藤花の懐妊

 深芳と与平に心配をかけないよう書き置きを残し、紫月は与平の家を出た。

 それから彼女は、危険が迫っていることを知らせるため岩山がっさん霞郷かすみのごうに式神を飛ばすと、次に吽助うんすけを呼び出した。

 吽助に乗って、風に一気に運んでもらえば、明け方頃には沈海平しずみだいらに着く。


「ごめんね吽助、一緒に沈海平に行ってくれる? 行く前に端屋敷はやしきの叔母さまにも会って行こう。体調を崩されているって聞いたから、行く前に会っておきたい」


 紫月が話しかけると、吽助は彼女の手に頬を擦り寄せた。どうやら大丈夫らしい。彼女はすぐに出発した。


 途中、落山の屋敷に戻り、そこで身支度を整えることにする。

 用心深く屋敷に近づいて、彼女は誰もいないことを確認し中に入った。ひっそりと静まり返った屋敷は、廊下のそこかしこに土足で踏み荒らした足跡が残っていて、昨夜から時間が止まったままだ。

 ここに長居は無用である。紫月は、まっすぐ自分の部屋に行き、動きやすい格好に着替えた。初めて沈海平に行った時と同じ、唐草模様の小袖とスカート、それにレギパンとブーツサンダルという格好だ。最後に、御守り代わりに碧霧からもらったアメジストのペンダントを首に掛けた。


 この屋敷に戻ることはもう二度とない気がする。


 紫月は、早々に屋敷を後にした。


 そして今度は、明山あからやま端屋敷はやしきへと向かう。着いた頃には辺りはすっかり薄暗くなっていた。


「叔母さま、来たよー」


 今日は誰もいないらしい。静かな屋敷の中を叔母の姿を求めて歩き回ると、彼女は寝間で横になっていた。


「叔母さま……?」

「……紫月か?」


 気だるそうな声で答え、藤花がゆっくりと体を起こす。その顔色は青白い。紫月は、藤花の側近くにひざまずいた。


「どうした、こんな時間に。何かあったかえ?」

「ううん。心配で叔母さまの顔を見に来たの。体調がすぐれないって聞いたわ」

仔細しさいない。それに体調が悪いのではない」


 言って藤花はふわりと笑う。そして彼女は、嬉しそうに自身の腹部を両手で撫でた。


「やや子ができた。それゆえ、少し疲れるだけじゃ」

「……やや子」


 紫月は目をぱちくりさせた。藤花が嬉しそうに頷いた。思いがけない報告に、紫月は「本当?!」と歓喜の声を上げた。


「嘘をつくわけなかろう」

「ああ、そうよね。えっと、じゃあ、百日紅さるすべり先生は……?」


 最も一緒に祝いたい者──、猿師の名を紫月は上げる。すると藤花は、思案げな顔で庭の先へと視線を向けた。


「今宵、兵衛はこのことを千紫さまにお伝えしに奥院へ行った」

「……」


 喜びの気持ちが一転し、不安へと変わった。

 伏見谷の猿師は、単に報告に行っただけではない。おそらく、子ができた藤花の処遇について千紫に頼みに行ったのだ。


 藤花は、元伯家が結んだ古い盟約により伏見谷の二代目九尾へ嫁つぐことが決まっている。そして、初代九尾が持っていた妖刀に関するものをその体の中に預かっている。

 そんな彼女が、伏見谷へ嫁ぐ前に誰かとの子を宿すなんて本来であれば許されない。


 藤花と猿師の二人の姿をずっと見てきた紫月にとって、この妊娠はとても自然なことであるが、真実を言うことはたぶん無理だろう。


 すると、紫月の不安な気持ちを感じ取ったのか、藤花があっけらかんとした口調で言った。


「私は里中で出回る噂の通り、数多あまたの男を摘まんできた好色な姫ゆえ、どこの誰の子かは分からぬ。おそらく千紫さまにもそう申し上げておるであろう」

「叔母さま……」


 思わず紫月が苦笑すると、藤花は「そういうことじゃ」と笑った。

 母親も叔母も、どうしてこんなにしたたかなのだろう。


(私も強くなりたい──)

 

 どんな運命にも笑っていられるように。

 紫月はきゅっと口元を引き結んだ。


「叔母さま、吽助をちょっと借りたいの。沈海平へ行ってくるわ」

「沈海平へ? また急じゃの」

「うん。急にみんなに会いたくなって」


 心配をさせないための小さな嘘。今、自分はちゃんと自然に笑えているだろうか。

 叔母の心身にこれ以上の負担はかけたくなかった。


「赤ちゃん、生まれたら抱っこさせてね」

「うむ、もちろんじゃ」


 藤花が笑った。母親の面影を宿した優しく美しい笑顔だった。すると藤花が、あらたまった様子で紫月に話しかけた。


「紫月、」

「なあに?」

「私は、この端屋敷から三百年出たことがないゆえ今の月夜の情勢には疎い。だから難しいことは分からぬが──、何があろうと最後まで笑っておれ。そうすれば負けることはない。これが絶対に負けぬ方法じゃ」

「……似たようなことを母さまにも言われたわ」


 やっぱり二人は似たもの姉妹だ。紫月は苦笑いを返した。




 奥院東舎ひがしや、千紫は廊下に座り、独り月を見ていた。初夏の爽やかな風が吹く中、ぼんやりとした月光が優しく夜空を照らす。


 昨夜からの一連の事件で、あまりに多くのことが起き過ぎた。これ以上は何も起こらないで欲しいと彼女は思った。


 何より、息子が夫とぶつかるにはまだ早い──。


 あの二人は水と油だ。今までも小さな衝突は日常茶飯事だった。

 しかし、ここまで大きく発展したのは今回が初めてだ。経験も力量も不足している碧霧が正面からぶつかっていったところで、負けを見るのは明らかだった。

 彼の敗北は、今後の月夜の情勢にも大きく影響する。旺知と碧霧、二人に繋がる洞家の力で、今の御座所おわすところはぎりぎり均衡を保っているのだ。


 そんな矢先、今度は伏見谷の妖猿より式神で知らせを受けた。あちらから連絡をしてくることは珍しく、「火急の件」という言葉に妙な胸騒ぎがした。


 廊下で月を眺めて待つことしばし、庭の低木の暗闇に何者かの気配がした。


「して、何用か?」


 誰もいない庭に向かって千紫が声をかける。

 ゆっくりと、暗闇から影が現れる。百日紅さるすべり兵衛ひょうえ──猿師がその場に膝をついていた。かつて自分と同じように和装だった男は、今ではすっかりシャツとズボンという現代の人の国の身なりだ。

 千紫は猿師に向かって首をかしげた。


「おまえから知らせを寄越すとは珍しい」


 猿師が頭を軽く下げたまま静かに口を開いた。


「藤花様、ご懐妊のよし」


 千紫の顔がすっと強ばる。手が震えだすのが分かった。

 こんな時になぜ──。

 とにかく誰かに聞かれてはまずい。彼女は静かに立ち上がると、きびすを返した。


「ここは虫の音がうるさ過ぎる。中へ」


 猿師は小さく頷いて立ち上がった。


 紫月が単身で沈海平へ向かった夜、藤花懐妊の報を受け、千紫は伏見谷ふしみだにの猿師との間に密約を交わす。それがどんな内容であるか、紫月は知る由もない。

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