3 不測の事態

 部屋から利久の気配がなくなり、千紫は再び思案する。

 まさか旺知が紫月に手を出そうとするなんて。

 父親としての自覚も何もないのかと、あらためてあの男の性質に吐き気がした。


 深芳は旺知を止めることができたのか、どうやって止めたのか。そもそも間に合ったのか。そして何より、このことを息子に伝えるべきかどうか──。思考があちこちに飛んでまとまらない。


「落ち着け」


 自分自身に言い聞かせ、千紫は大きく深呼吸した。とにかく今できることをしなければならない。

 利久の言う通り、旺知が深芳たちを殺すとは思えなかった。最悪の事態になろうとも望みはある。捜索は、阿紀と那津に頼んでいる。

 ならば今考えるべきは、次洞家から飛び立ったという鬼兵団。旺知が無関係な訳がない。もしかしたら、佐之助とともに兵団を率いているのかもしれない。そう仮定すれば、旺知が戻ってこない理由も納得がいく。


 折しも外の廊下がざわついた。と、いかつい顔をした二つ鬼──六洞重丸が緊張した面持ちで部屋に入ってきた。


「奥の方、佐之助が何をした? 三百年前の月夜の変を思い出しましたぞ」

「四番隊に伝令は?」

「出しました。第一報はすぐにでも。それで今の状況は?」

「鬼伯も外出から戻ってきておらず、事態はあまりよろしくない」

「……鬼伯が? つまり、佐之助と一緒ということですか?」


 重丸が鼻白んだ。千紫は苦々しい顔を彼に返した。


「その可能性が高い」

「ふうむ……」


 重丸があごに手を当てぎょろりとした目を細める。


「どこに向かったのか──。西の領境は碧霧さまにお任せになった。わざわざ横槍を入れに行くとも思えませんが……」


 その時、慌ただしく廊下を走る音がして、黒い武装束の隊士が現れた。首に六洞衆の証しである翡翠の鋼輪を付けている。


「ご報告いたします。次洞家から飛び立ったと思われる鬼兵団ですが、南西に向かった模様です。その数、五百騎以上」

「五百──! 戦でも仕掛けるつもりか」


 重丸が目を見開く。霊力の強い鬼は、「十人力(人にして十人分の力)」とも言われる。それが鍛え抜かれた隊士となると、「百人力」以上だ。隊長格ともなれば、それこそ千とも万ともなる訳で、鬼兵五百騎というのは、人にして五万以上の軍勢に匹敵する規模となる。


「それだけの鬼兵をどうやって集めたのだ? それに、南西とは──。西の領境は北西です」

「……違う、領境ではない。目的は、きっと沈海平しずみだいら


 千紫がようやくに落ちた顔をして唸るように呟いた。重丸が眉をひそめた。


「しかし、沈海平は碧霧さまが和平を結ばれた」

「だからでろう。和平など、最初ハナから認める気などなかったのじゃ。気に入らないものは力で潰す。それが、あの男の昔からのやり方だ」


 ため息混じりに千紫が呟く。

 油断した、と思った。息子の成長に、舞い上がっていたかもしれない。念願の姫を手に入れ、うかれていたかもしれない。

 油断のならない男であることは、三百年前から分かっていたはずなのに。


 刹那、今度は雪乃が「失礼します」と部屋に入ってきた。


「千紫さま、加野と阿紀から連絡が」


 彼女は重丸に軽く一礼し、千紫に耳打ちをする。


「まず加野からの報告で、屋敷内に佐之助はいないそうです。夕刻、大勢の鬼兵が屋敷に集まっていたと」

「やはりそうか。ほぼ、間違いないの。それで、阿紀からは?」

「はい。それが、闇夜に市女笠の姿を見た者がおります」

「市女笠──」

「行方は依然として分かりませんが……」

「いや、十分じゃ。捜索を打ち切れ」


 千紫は雪乃を下がらせた。ほんの一瞬、彼女の表情が緩み、その目に安堵の色がにじむ。

 深芳が市女笠をかぶる時は一つしかない。となれば、行き先はもう分かる。


 千紫はすぐに口元を引き結ぶと、鋭い眼差しで重丸を見た。


「今から佐之助の鬼兵団の動きに備える。四番隊の詳しい報告を待っていては後手に回る。至急式神を飛ばし、『次洞に不審な動きあり』と沈海平の右近に連絡せよ。西の領境にも同様の連絡を」

「しかし、そのようなことをすれば碧霧さまが黙っていないでしょう」

「かまわぬ。沈海平は伯子が深く関わっている」


 きっと煮え湯を飲ませることになるになるだろう──。だとしても、こればかりは知らせない訳にはいかない。

 腹を決めた奥の方の顔がそこにあった。




 翌朝、与平はいつもの通りいつもの時間に御座所おわすところに出仕した。

 家に置いてきた深芳たちは気がかりであるし、旺知の姿を見て平静でいられる自信もなかったが、だからと言って急に休んでは不審に思われる。

 それに、謎の鬼兵団のことも気になった。今日はまず、そのことを重丸に報告しなければならない。なぜ、昨日の夜に知らせなかったかは──。今、もっともな理由を必死に考え中である。

 冷静を心がけていたつもりだが、それなりに動揺していたのだと今更ながらに思う。落山親子のことを優先して、報告を後回しにするなど通常では絶対にない。

 とは言え、深芳たちをかくまっていることは誰にも教えるつもりはない。紫月を伯子の元へ届ける必要はあると思ったが、深芳を手放す気は与平にはもうなかった。


 言い訳の妙案が浮かばないまま御座所に与平は到着する。しかし、着いた途端、六洞重丸から召集がかかった。聞けば、六洞の大将は夜中に千紫に呼び出されたらしい。

 すぐに指定された小間に向かうと、すでに他の隊長格が集まっていた。六洞衆は全部で九隊ある。七から九番隊はもともと西の領境に配置され、一と五番隊が援軍に向かっている。今、ここに集まったのは残り四隊の隊長だ。


「何があった?」

「次洞家から私兵数百騎が昨夜どこかへ出立したらしい。鬼伯が昨夜の夕刻からお戻りになっていないらしく、不審に思った奥の方が調べて発覚した」


 髪を結っている者がまだまだ多い中、短髪の一つ鬼が答える。二番隊長の橘玄二だ。与平はあえて驚いた顔を彼に返した。


(さすが奥の方と言うべきか。動きが早い)


 自分が報告するまでもなかったなと、与平は少しほっとした。旺知が不在だということも、彼の顔を見たくない与平にとっては都合が良かった。彼はこのまま素知らぬふりを貫くことにした。

 落山の屋敷から深芳たちが消えた件については、話題にさえ上がらない。もしかしたら、鬼兵団のことで落山の異変にはまだ気づいていないかもしれない。どちらにせよ、これに関してもだんまりを決めることにした。


 しばらくして厳しい顔つきの重丸と千紫が小間に現れた。

 与平をはじめとした各隊長は、素早く座に着いて低頭し、二人を迎え入れる。千紫と六洞衆隊長の面々は、人数も少ないことから輪になるような形で座った。


「朝から申し訳ない。不測の事態が起こった」


 開口一番、千紫が言った。

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