2 凡庸で無害な男

 千紫が夜中に執院へ出向くとなって、執院では泊まりの吏鬼たちが大わらわとなった。廊下では明かりを灯すため、御用使いがロウソクを持って走り回っている。

 その中を身支度を済ませた千紫が進んでいく。と、東ニノ間まで来ると、戸口でお茶を片手に待っている者がいた。


「慌ただしいですな。このような夜中に、何事でございましょう?」


 言って男はのんびりとした顔を和ませた。御用方、七洞利久である。


「利久、何ゆえおる?」

「今日……いえ、もう昨日になりますが、何やらでしたので、念のために戻ってきた次第です。やはり私の勘が当たりました。お茶をお持ちいたしましたが、お飲みになりますか?」

「……」


 含みのある利久の物言いに千紫はすっと顔を強ばらせる。彼女は周囲を見回してから「中に入れ」と彼を招き入れた。


 千紫は中に入ると、部屋中央にある桑染めのソファーに座る。利久がテーブルにお茶を置いてから、千紫の向かい側に座った。


「何を知っている? 利久」

「と、おっしゃいますと?」

「とぼけるな。深芳と紫月が落山から姿を消し、行方が分からない。加えて、次洞家が私兵を集め、どこかへ飛び立ったらしい。おまえは、勘が当たったと言ったな。どういう意味じゃ?」


 先ほどからの情報不足に対する苛立ちもあって、千紫は単刀直入な問いを利久に投げた。利久が苦笑いを浮かべながら落ち着いた様子で答えた。


「御用使いは、いつどこで何を聞こうとも、決して口外することはありません。我々が口を閉ざす理由は二つ。一つは、御座所のいかなる場所にも出入りするため。もう一つは、我らがむやみに口を開くは、嘘と混乱の始まりとなるからでございます」

「それは──分かっておる」

「では、今こうして私が口を開くことは、嘘と混乱の入り口に立つとご理解ください」


 利久が静かに頭を下げる。いつも穏和な瞳が、今日ばかりは鋭く研ぎ澄まされている。それだけで彼の覚悟が十分に伝わってきた。そして、同じ覚悟ものをこちらにも求めている。

 千紫が明確に頷いて先を促すと、利久はゆっくりと口を開いた。


「次洞家の件については何も分かりませんが──、昨日、落山の方が奥院へいらしていたのはご存知で?」


 利久の問いに千紫は軽く頷いてみせた。


「夕方、聞いた。私に顔も見せずに帰るなど妙だなと思った」

「そうです。落山の方は、美玲の名を語った偽の手紙により奥院に呼びつけられたのですから。奥の方にも内密で相談したいことがあると」

「偽の手紙──」

「はい、手配したのは清音という名の侍女。昨日、美玲は休みをもらっておりましたが私の手伝いなどもあって御座所おわすところを自由にうろうろしておりました。いつもの通り出仕していると思った者も大勢いたでしょう。落山の方が美玲を訪ねてきても、さして不自然ではありません」

「奥侍女でもない清音が美玲の予定をなぜ把握している? そもそも、そなたがなぜそこまで詳しい?」

「……我が妻、佐和が関与しております」

「なんだと?」


 しかし彼は、ついっと体を乗り出し「今、重要なのはそこではありません」と声を低めた。


「いずれにせよ、落山の方はおいでになり、落山の屋敷には紫月さまがお一人になった。そして、それこそが狙いにございます。鬼伯は、ちょうど同じ頃、どこかへ出かけられたとのこと、」

「……」


 千紫は、利久の言葉を反すうし、ゆっくりと噛み砕く。次第に彼女は顔色を失い、わなわなと震え出した。


「……つまり、伯は紫月に手を出そうとしたと?」

「はい」

「それに気づいて、深芳は戻ったと?」

「はい。ご推察の通りでございます」


 刹那、千紫はきっと利久を睨んで声を荒げた。


「なぜ、すぐに報告をしなかった?! そこまでして黙することがおまえの矜持かっ? それとも妻を庇い立てしたかっ?」

「佐和は、放逐いたしました。多少なりと情はありますので、逃げる機会は与えましたが。しかし後は知りません。捕まえて、煮るなり焼くなりしてくださればいい。私が報告をしなかったのは、知ったところで誰にもどうにも出来ぬことだと判じたからです。あの方は、獣にございますれば」


 利久が淡々と、しかし不快さを隠すこともない口調で切り返した。初めて聞く、利久の本音である。


「あえて言わせていただければ、今回のことは、鬼伯ない。偽の手紙を使って母親を奥院に誘い出し、留守を狙うなどと回りくどい真似──。さすがに、後ろめたさがあったのでしょう。なればこそ、下手に責めては逆上いたします。狂暴な獣を、いたずらに刺激して追い詰めてはならぬことぐらい小さな子供でも分かります」


 千紫がぐっと言葉に詰まる。

 彼の言う通りだった。自尊心の高い男である。それこそ、そのちっぽけな自尊心を守るために何をするか分からない。「刺激しない」というのは、理にかなっていた。

 とは言え、納得できる訳がない。他に何か手立てがあったはずだと、悔しい思いが込み上げてくる。

 そんな千紫の耳に、利久の容赦ない言葉が続いた。


「これは落山親子の問題です。お気持ちは分かりますが、臣下である我々は手出しできる立場にない。幸い、なんの立場にもない落山の方は鬼伯に真正面から物が言える。間に合いさえすれば、紫月さまが獣に食われることはありません」

「……だから全てを深芳に託したと? 結果、二人はいなくなった!」

「捕らえられたか──、むしろ逃げたと考えるのが妥当かと思われます。美しい宝玉のような親子です。殺されることはない」


 淡々とした口調で諭され、千紫は力なく顔をそらした。凡庸で無害と言われた男は、感情で動くような無能な男ではなく、やはり洞家の一人だったと思い知る。そうでなければ、自分はこの男を七洞に推挙などしない。

 重苦しい空気がしばらく流れた。しかしややして、利久はいつもの穏やかな顔になり、ゆっくりと立ち上がった。


「とは言え、此度のことは七洞としても黙って見過ごす訳にはいかぬ蛮行にございます。佐和をそそのかし、美玲の名にも傷を付けました。七洞は今まで通り口を閉ざし続けますが、もはやただ閉ざすだけのことは致しますまい」


 最後にそう言い残し、彼は千紫の部屋を出ていった。

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