8 最後は笑う者が勝つ
しばし与平は、深芳をじっと抱き締めたまま動かなかった。しかし、ゆっくりもしていられない。土間で倒れているという侍女も気になったし、深芳の体も心配だった。
与平はそっと深芳を抱く手を緩めると、彼女のはだけた衣服を胸元で重ね合わせた。彼女をめちゃくちゃにされたという激しい怒りは──、今はぐっと堪えた。
「急ぎ、波瑠という侍女を見てきます。深芳さまは身なりを整えておいてください」
「分かった。土間はあちらじゃ」
深芳が場所を指し示すと、与平が土足のまま屋敷の奥へと消えた。その間に深芳は見苦しくない程度に身なりを整える。
しばらくして、ぐったりした波瑠を馬の背くくりつけ、与平が庭先へと戻ってきた。
「腹の辺りを斬られ意識もありませんが、ひとまず止血もしました。回復には時間がかかりますが、命に別状はありません」
「そうか、」
鬼は生命力があるので、人のように簡単には死なない。確実に殺すのなら、首を跳ねるか心の臓を一突きするしかない。
波瑠の無事を聞いて、深芳がほっとした表情を見せた。
与平は再び土足で部屋へ上がると、深芳の前にひざまずいた。
「さあ、ひとまず儂の家へ。一刻も早く、この屋敷を離れましょう」
「すまぬ、迷惑をかける」
「何を今さら。いいだけ押しかけていたではないですか」
どちらからともなく笑いが漏れた。すると、ふと深芳が何かを思い出した顔をして、人差し指を口元に当てた。
「
「は、」
「許したのは体だけじゃ」
あんな男にやるものかと言わんばかりの顔で深芳が笑う。どんな仕打ちにも屈しない、その力強い笑顔に与平はほれぼれする。
彼は、部屋の隅に落ちている市女笠を拾って彼女の頭にふわりと被せた。それから、あらためて垂れ衣をそっとめくる。
「そういうところが好きですよ」
その場の流れで素直に気持ちを伝えると、笠の中の主は目をぱちくりさせつつ顔を真っ赤にしてたじろいだ。
誰も知らない彼女の素顔──、こういうところも大好きだ。
与平は、彼女が死守したというそこへ優しく口づける。
柔らかな唇の感触と互いの吐息とが絡み合い、最後はちゅっと音が跳ねた。
「さあ、行きましょう」
言って与平は市女笠の女を抱き上げた。沈丁花の香りがふわりと放たれ辺りに漂う。
そして彼は、彼女を抱いたまま馬に乗り、一気に夜空へと駆って出た。
星明かりだけが頼りの空の中、与平たちは家へと急ぐ。
その途中、与平は深芳から今夜の出来事の説明を受けた。おおむね聞き終わってから、彼は大きく嘆息した。
「七洞姫からの偽の手紙……。深芳さまの留守に旺知が現れたのは、偶然ではないということですか。ここまで大がかりなことを一人でやるというのは無理がある。裏で仕組んだ奴がおりますな」
「うむ。が、息子の宵臥に手を出そうなどと聞き苦しい真似、誰にでも頼めるものではあるまい」
「となると、黒幕は佐之助あたりが妥当なところでしょう」
とは言え、おそらく証拠は何もない。唯一の手がかりは利久に渡したという手紙だけだが、佐之助が関わったという有力な証拠にはならないと思われた。
その時、与平がぴくりと顔を緊張させ、とっさに空馬の手綱を引く。馬は突然急降下し、近くの大木の影に隠れた。
「どうした?」
「何か来ます」
緊張した声で顔を上げ、与平は枝の隙間から空の様子を窺う。
ややして、空を裂くような低い音とともに北東の方角から大きな黒い影の塊が現れた。
月明かりのない空を進む黒い影はまるで雨雲のようだ。目を凝らしてよく見ると、騎馬が隊列をなして進んでいる。鬼兵団だ。
「……
影の塊の規模からすると、かなり大きい。五、六部隊以上は引き連れている。
しかし、これだけの規模の六洞衆が動くとなれば、事前に何も知らされていないというのはおかしい。
与平が唸るよな声を漏らす。
「あれは、どこの部隊だ? 六洞衆ではない……」
騎馬の隊列が微妙に違う。六洞衆であれば、もっと整然としているはずだ。
六洞衆を真似てはいるが、もう少し粗削りな印象を受けた。
謎の鬼兵団は、与平たちの頭上を通りすぎていく。そして、彼らは南西の方角へ走り去った。
与平の中に得体の知れない不安が湧き上がる。彼は、無意識の内に深芳を自分の身に抱き寄せた。
「急ぎましょう。嫌な予感がしてならない」
影の部隊が消えていった南西の空を見つめながら与平は手綱を握り直した。
それから、与平たちは家に辿り着いた。目立たないよう夜の闇に紛れつつ、玄関ではなく裏庭へと回る。
彼は、まず深芳を下ろし、それから波瑠を抱きかかえた。
「ひとまず彼女を小間で休ませます。それから風呂の用意をすぐにいたします」
「分かった、ありがとう。紫月は? 顔を見せてやりたい」
「居間かと。安心されると思います」
深芳は縁側から家に入ると、与平と別れ居間に向かった。狭くて小さな廊下を進むと、居間からわずかばかりの明かりが漏れている。
「紫月、来たえ」
いつもの口調で声をかけ、薄暗い部屋を覗く。と、部屋の隅で小さくうずくまっている娘がはっと顔を上げた。
「母さま……」
「心細い思いをさせたの。もう大丈夫じゃ」
「わ、私──、あの……」
震えながら立ち上がり、すがるように手を伸ばしてくる娘を深芳は抱き止めた。
紫月が何か伝えようと必死に口を開ける。しかし、それは声にならずに彼女の中にとどまった。深芳は紫月をそっと座らせると、優しく
「何も話さずともよい。すまぬ、怖い思いをさせた」
「……」
娘が激しく首を左右に振る。その目が、「謝らないで」と言っていた。大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。痛々しい娘の姿を目の当たりにして、今まで感じたことのない怒りが腹の底から湧いてきた。
旺知に対する怒りであり、娘を守れなかった自分に対する怒りである。
しかし、この動揺を娘にさらす訳にはいかない。深芳はぐっと奥歯を噛み締めて、あえて優美に笑った。
「この程度のことで負けてはならぬ。何があろうとも、最後は笑っている者が勝ちじゃ。紫月、おまえも碧霧さまの隣に立つと決めたのであれば、そう心得よ」
本当なら、もっと優しい言葉の方が傷ついた娘には
なぜなら娘は再び立ち上がり、必ずあの男と対峙しなければならない時が来るのだから。
紫月が戸惑った表情を見せつつ、しかし、力強くこくりと頷く。
その瞳に、もう涙はない。
謎の鬼兵団が月夜の里を発った夜、落山の屋敷から深芳と紫月が姿を消した。
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