幕間(二)

堅物の与平さんと美女の深芳さん② 悪い男

 深芳は、与平の家の粗末な風呂場の湯船の前に立たされていた。肌衣は、まだ着ている。

 風呂の用意ができたのであれば、さっさと入ればいいのだが、なぜか「ちょっと待っていてください」と止められた。全く意味が分からない。


 ちなみに、紫月は与平の亡き母親の部屋で今は寝ている。強引だと思ったが、与平が深く眠るよう無理やり術をかけた。少し落ち着いたとは言え、まだ心は不安定だ。それで、丸一日ゆっくり眠らせることにした。


(さて、待つ意味が分からぬ。もう勝手に入ってしまおうか……)


 湯船というよりは湯桶に近いそれを眺めながら深芳が考えを巡らせていると、与平が風呂場に入って来た。たすきをかけて袖をまくり、裾を腰まで上げて足軽のような格好をしている。


 そして彼は、開口一番に言った。


「お待たせしました。さあ、体を洗いましょう」


 思わず深芳はたじろいだ。

 洗いましょうって──、体は一人で洗えるし、いやむしろ、一人で洗いたい。特に今日は、体中にあとを付けられ、与平に見せられたものではない。

 過保護とも思える与平の申し出を深芳はやんわりと断ることにした。


「一人で洗える。心配は無用じゃ」

「駄目です」


 あっけなく却下され、鋭い目で早く脱げとばかりに急かされる。深芳は肌衣をかき抱いて、風呂場の出入口をびしっと指差した。


「いいから一人で洗うゆえ、出ていきやれ!」

「ですから──」


 最後は舌打ち混じりの大きなため息をつかれた。なんだか分からないが、いらっとさせたらしい。

 しかし、こちらも譲る気はない。それで深芳が、「出ていくまで入らぬ」と顔を背けて抵抗すると、あろうことか、彼は深芳を無理やり抱き上げ、そのまま湯船へと放り投げた。


「きゃあ!!」


 深芳が叫び声とともに湯船に沈み、湯しぶきが辺りに飛び散った。

 空気を求めて彼女が顔を出すと、湯船のへりに両手を付いてぐいっと前のめる与平の顔とかち合った。


「つべこべ言わずに洗いますよ。こういうのは時間との戦いです。体の表面などどうでもいい。万が一にも子ができないよう、きっちり奥を洗います」

「……」


 深芳はさあっと青ざめた。正直なところ、与平がぐいぐいと来るのも、彼の言っていることも、半分くらい意味不明である。

 すると、そんな深芳の気持ちをようやく感じ取ったのか、与平がほんの少し表情を和らげた。


「そのような顔をなさらずとも、心配には及びません。女の体は嫌というほど洗ってきましたから。痛くもなく、すぐに終わります」

「違うっ。そうではなく!」


 少しでも期待した自分が馬鹿だった。こちらの不安を何一つ解消してくれないどころか、むしろ謎がまた増えた。


 どうして女の体を嫌というほど洗っているのだ──という疑問は、与平の次の行動で打ち消された。





 次の日の朝、与平が自分の部屋を覗くと、深芳が布団にもぐって丸まり、そこから呻き声が漏れていた。昨夜、風呂を上がってからずっとこの調子だ。

 別室で眠る紫月は起きる気配がない。術がよく効いているらしい。与平は、丸まった布団の側にあぐらをかいて座り、恨みの言葉を吐き続けるその塊に向かって声をかけた。


「深芳さま、いい加減に機嫌を直してください」

「こっ、これが直るか!! このような屈辱、後にも先にもないわっ!!」


 亀のように頭だけをにょきっと突き出し、涙目で深芳が与平を睨んだ。「里一の美女」と謳われる女とは思えない情けない姿である。

 与平が「やれやれ」とため息をついた。


「子ができないための処置です。どうかご容赦を」

「あやかしは滅多と子をなさぬ。あのようなことをせずとも、子などできぬ」


 深芳はふいっと顔を背けて吐き捨てた。今となっては、平然と体を洗い続けた与平自身も腹立たしい。自分の体は微塵も魅力がないと言われたようなものだ。

 すると与平が、厳しい表情で深芳を見た。


「子ができぬなどと──そのような無責任な物言いはお控えください」

「……本当のことじゃ。紫月が生まれるのに二百年かかったのは、そなたも知っておろう」

「だからと、なぜあの一度が違うと言い切れます?」

「それは……」

「儂は、その一度で生まれたててなし子です」


 深芳が、「え?」とにわかに顔を強ばらせる。気まずさと戸惑いを合わせた目を与平に向けると、彼は自嘲的な笑みを浮かべた。そして、遠い目をさ迷わせながら淡々とした口調で話し始めた。


「かかは、もともと里中の場末の遊女あそびめです。毎日、何人も客を取らされ働かされていました。当然、体を洗えない時もある。儂は、その誰かも分からない客との間にできた子です」


 彼が里中出身であることは聞いていた。しかしまさか、花街出身だったとは。

 初めて聞く与平の出生に深芳は思わず息を飲んだ。与平が肩をすくめて言葉を続けた。


「当時、伝手つてもなく才もない二つ鬼の暮らしは知っての通りです。女一人であればなおのこと。儂が生まれてからは、さらに金がかかるようになり──」


 産んだ子を捨てる女が多い中、母親は、それでも自分を大事に育ててくれた。彼にとって母親は唯一の家族であり、花街は生きる世界の全てだった。

 それなりに大きくなってからは、与平も店を手伝わされるようになった。主な仕事は、客の案内と、仕事を終えた女の体を洗うこと。洗った後は女に感謝されたが、正直、汚い仕事だと思った。

 同じ鬼でも、一つ鬼たちは刀を持って里中の大通りを闊歩かっぽしている。彼らと自分はどうしてこうも違うのか。

 おのれの境遇を恨んだが、恨んだところで何かが変わる訳もない。結局、与平はここで女の体を洗い続けるしかなかった。

 行き場のないうっぷんは、商品である女たちと刹那的な関係を持つことで誤魔化した。一方で、無理やり体を奪われ壊れていく女たちも数多く見てきた。

 力がない者は、力のある者に食い潰される。

 何もかもがぐちゃぐちゃで、どうしようもなく、反吐へどを撒き散らしたような毎日だった。


「かかの目が見えなくなったのは、金回りのいい上客を横取りされたと誤解され、それを逆恨みした女に呪詛をかけられたせいです。使い物にならなくなった途端、店は儂らを追い出しました。そこでようやく儂も目が覚めました。かかを一番食い潰していたのは客でも店でもなく、自分であったと」

「……それで、八洞やと十兵衛殿のところに?」

「はい。当時、二つ鬼でありながら武で洞家に成り上がった六洞りくどう家に憧れておりまして、錆びた刀を拾い、振り回しては真似事を。いきなり洞家の門を叩ける訳もないので、下野しもつけの姓を名乗っていた十兵衛さまに拾っていただきました。ありがたいことに、十兵衛さまは学も大事だと文字を読むことから教えてくださいました」


 なるほど、と深芳は小さく頷いた。そして、今は亡き与平の母親に思いを馳せる。教養はなくとも愛情に溢れ、思慮深い女性だった。

 黙り込んでしまった深芳に与平が苦笑いを浮かべた。


「……幻滅しましたか? 儂はあなたが思っているよりずっと悪い男です」


 深芳が「本当に」と笑い返した。しかし、汚さで言えば、奥院も大差ない。むしろ、きらびやかな嘘で塗り固めている分、たちが悪い。

 彼女は布団からもぞもぞと出てくると、遠慮がちに与平の胸にしなだれかかった。彼が腕を回して受け止めてくれたので、今度は遠慮なく頬をすり寄せる。



「では与平。悪い男としては、このまま私をさらってくれるのであろう?」


 ねだる声で訴えれば、与平が困った顔をした。


「……どうしましょうか。月夜の里にはいられませんね」

「ならいっそ、どこか遠くへ行きたいの」


 深芳があっけらかんとした口調で答える。与平は、「あなたという女性は」と呆れた様子で笑った。

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