6 落ちた市女笠

 母親もいない。波瑠も動けない。


「いやっ、誰かっ、葵!!」


 紫月は決して届かない声を張り上げる。

 腹の底から言い様のない嫌悪感があふれ、彼女はありったけの力で暴れた。なんとか旺知の腕から逃れようと畳に爪を立て、両手で踏ん張る。


 刹那、ぐるりと体を強引にひっくり返された。はっと目の前の男を見れば、不機嫌極まりない目とかち合った。


「言ったはずだ。伯家のために歌い、体を差し出せと」

「だったら──!」


 紫月は震える声を絞り出し、旺知を睨み返した。


「どうして今なの? 本当にそう思っているのなら、葵がいる時に、母さまに堂々と断って、私を奥院に召し上げればいい!!」

「……言いたいことはそれだけか?」


 旺知はうるさそうに顔をしかめて片手で紫月の口を塞ぐ。そして彼は、そのまま紫月を押さえつけ、乱暴な振る舞いとは正反対の穏やかな口調で言った。


「今夜、沈海平しずみだいらへ兵を出す。儂が自ら赴き、叩き潰す。その前に、昂る気持ちを静めておきたい。今、おまえを抱くのはそのためだけだ」


 沈──海平?

 思わず紫月は眉根を寄せた。旺知が小さく鼻を鳴らした。


「くだらん和平など結びおって、おかげで後始末をするはめになった」


 この男は何を言っている? 沈海平に何をするつもりだ?

 紫月は呻きながら体をねじり旺知を睨んだ。碧霧がどんな思いで和平を結んだか、真比呂たちが何を思って暮らしているのか──、悔しさと怒りで涙が込み上げてきた。

 なおも抵抗する紫月に、旺知がやれやれと口の端を歪める。


「無駄に暴れるな。どうしても嫌だと言うのなら、代わりに母親を差し出すか?」

「!」

「おまえが駄目なら母親だ。さあ、選べ。おまえの体か、母親の体か。おまえの好きにしろ」


 母親の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。誰よりも偉そうで、でもちょっと恋愛下手で、好きな男の前では全然ダメで。無理やり父親の側妻そばめにさせられ、それでも自分を産んで育ててくれた。絶対に幸せになって欲しい憧れの女性。


「……」


 全身の力が抜けた。自分が逃げても、この男は母親を襲う。拒むなんて、最初から無理だった。

 心の中で「ごめんね」と呟く。

 これは、誰に対する謝罪だろう。乾いた笑いが口から漏れ、涙がこぼれた。


 その時、


 誰かが旺知の衣服の襟を掴んで体をぐいっと持ち上げた。

 なんだと驚く旺知の顔に容赦ない平手が打たれ、彼はそのまま横に蹴り倒された。

 紫月は涙でぼやける目を凝らし、突然現れた者を見る。


「おや、我ながらはしたなかったかの」


 弾む息を落ち着かせながら、あくまでも優美な所作で乱れた裾を元へと戻す深芳がそこに立っていた。


「母さま!」

「すまぬ、遅くなった。立てるかえ?」


 言って深芳は紫月を立たせ、何事もなかったかのように着崩れた娘の衣服を整えた。

 そして彼女は、娘を背中に庇い、冷めた視線を旺知に向けた。 


「で、ここで何をしておる? 自分の息子の宵臥よいぶしに手を出そうなどと、乱心召されたか?」

「深芳──っ」


 ぎりっと旺知が歯噛みする。気まずさからの誤魔化しか、それとも邪魔されたことへの怒りか。

 深芳は背後の娘に声をかけた。


「紫月、外へ」

「でも、母さまが──。それに波瑠も……土間で怪我をして倒れていて──!」

「心配ない。波瑠のことも心得た。振り返らず、早う行け」


 しかし、紫月はためらい動こうとしない。

 そんな彼女に向かって、深芳が「早う、行きやれ!!」と声を張り上げる。

 刹那、紫月が弾かれたように身を翻した。そして彼女は、裸足のまま庭へと飛び出すと、そのまま夕闇の中へと走り去っていった。


 紫月の気配が感じなくなるまで深芳は旺知を鋭く見据えつづけた。そして、この空間にいるのが完全に二人だけとなって、彼女はようやく口を開いた。


「恥も外聞もないとはこのことよ。呆れてものも言えぬ。のう、九洞くど殿」


 かつての旺知の姓を呼び、深芳は皮肉げな笑みを浮かべた。旺知は立て膝に腕を乗せ、横柄な態度で「はんっ」と鼻を鳴らす。


「あれは誰の子だ? なしの種で月詞つきことを歌える者が生まれる訳がない。かつて元伯家の嫡子が囚われていた座敷牢へ二百年間おまえが通い続けていたのは知っている」

義兄上あにうえさまが慕っていたのは義妹わたしではない。義兄上あにうえさが誰を好いておったか、九洞殿も知っていよう?」

「とぼけるな。あれは、あの歌は──、元伯家の血を引く娘だ」

「そう、それが?」

「とすれば、今この北の領を統治する儂がその娘をどうしようと自由だ」

「まあ、九洞殿らしい考え方じゃ」


 深芳はおかしそうに笑い飛ばした。この男に理屈は通じない。欲しい物は手に入れ、邪魔な物は排除する。ただそれだけだ。


 春の宴で紫月が月詞を披露した時から想定しうる事態であったと、深芳は悔いた。しかし今は、悔いている場合ではない。とにかく娘が逃げる時間をかせがねばならない。

 深芳は旺知に歩み寄り、彼の傍らに膝をつくと、その白く細い指を旺知の肩にかけた。そして彼女は、そのまま流れるような所作で、彼の耳元に顔を寄せた。


「私で手を打て。私となら、ただの浮気で終わる」


 彼女の花びらのような唇が静かに動き、艶やかな声が旺知の耳たぶを打った。緩くうねった栗色の髪がはらはらと旺知の体にこぼれ落ち、沈丁花に似た甘い香りが鼻孔をくすぐる。


「娘はまがいなりにも伯子の宵臥。いかに鬼伯と言えど、それに手を出せば、世間の醜聞となろう。だが、私となら話は別。今や、目障りなも死に、私は独り身じゃ」


 旺知が、ごくりと生唾を飲む。傍らにある深芳の顔に目を向けると、女の色をまとった瞳が彼を捉えた。


「あのような小娘に懸想けそうしているなど、世間の笑われ者もいいところ。それよりも九洞くど殿、私と楽しんだ方がよほど箔が付くというものじゃ」


 背中を指でなぞるような誘いの声にぞくりとする。妖しく甘い香りに思考が鈍る。

 自分の妻が誰よりも大切にし、触らせようとしなかった存在。三百年前、一度だけ触れようとし、しかし、あまりの美しさと気位の高さに怯んでしまった女。


 旺知の目が欲望にまみれた色に変わった。その変化を感じ取った深芳がふわりと笑いながら旺知の手を自身の胸元へと誘う。


「まずは優しく脱がせてくだされ」


 そう言い終わらない内に彼女は乱暴に押し倒された。旺知の手が腰の帯をまさぐり出す。


 大丈夫。これでいい。何の問題もない。


 衣服が緩み始めたのを感じながら深芳は思う。

 部屋の隅には、落ちたままの市女笠。深芳はそれをちらりと一瞥し、それから夜空に浮かぶ薄い三日月を見つめた。

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