5 予期しない訪問者
客間で待たされ続けることしばらく、さすがの深芳も「遅い」と思い始めた。わざわざこちらを呼び出しておいて、待たせ続けるような娘にも思えない。もしかしたら何かあったのかもしれない。
それで深芳が再び侍女を呼びつけようとしたところに、何やら工具を持った男が、がちゃがちゃと音を鳴らしながら現れた。
「……利久殿、」
「落山の方さま、美玲がお世話になっております」
さも、呼ばれてやってきたかのような様子で利久が穏やかに頭を下げる。そして、「ここの板が痛んでおりますな」と、さして痛んでもいない廊下に工具を広げ始めた。
なぜ今そんなことをするのか。意味が分からず戸惑う深芳をよそに、利久は一方的に話し始めた。
「今日、美玲は休みをいただいております」
「休み?」
「はい。今日は私の仕事を手伝ってくれており、先ほど帰りました。奥院では慌ただしい日々が続いておりましたので、ゆっくりできたと思います」
「そんなはずは──」
刹那、利久がついっと深芳に詰め寄り、唸るような声で囁いた。
「届いたのは、娘の名を語る偽の手紙にございます。どうか、こちらにお渡しください」
「──は?」
「目的は、御方さまを奥院へ誘い出すこと。つまり、姫を屋敷に一人にすることにございます。鬼伯は今、どこかへ出かけているよし。これ以上は
まさか。
蒼白となった深芳がばっと立ち上がった。利久が再び廊下の床を工具でいじり始める。
「伯礼門の外に白い空馬がうろうろしているかと思います。気は優しいのですが、よく勝手に馬屋を抜け出す困った奴で……」
「利久殿、恩に着る。ひとまず千紫には伏せてくだされ。旺知が絡むとあれば、誰も下手に動けぬ。全てこちらで対処する」
「承知いたしました」
そう言うや否や、深芳は懐の手紙をその場に投げ捨てると、打掛をぱさりと翻し、部屋を出ていった。
誰もいなくなった部屋、利久は捨てられた手紙を拾い上げる。そして、そのまま中を素早く確認した。
それを見て、利久は知りたくもない事実を知ることになる。
「……馬鹿な、」
利久は、困惑と怒りをない交ぜにした表情を浮かべた。ややして彼は、周囲を気にしながら手紙を懐深くしまい込んだ。
落山の屋敷では、紫月が居間で一人過ごしていた。
今日も浮かない一日だったなと、彼女はため息をつく。
傍らには何度も読み返した人の国の雑誌が数冊。そろそろ新しいのを独歩に頼もうかなと考える。
薄暗くなり始めた庭に目をやると、夕闇の空に細い三日月が浮かんでいる。ふと、碧霧も同じ月を見ているだろうかと思いを馳せた。
碧霧がいないだけで、こんなに毎日が味気なくなるなんて思いもしなかった。今さら寂しがるなんて自分でもどうかしていると思う。
しかし、彼と同じ風景を見て、彼の役に立っていたという手応えがあったから、寂しくはなかった。
今はなんにもない。
出征前夜、何日分ものキスを彼にしてもらったつもりだった。
なのに、たった三日で空っぽになってしまった。
(これって、いわゆる葵欠乏症ね)
厄介なものにかかってしまったなと紫月は独り苦笑した。
今日は、深芳も家にいない。なんでも所用があるとかで、夕方前に奥院へと出かけてしまった。
「元気、出さなきゃ」
紫月は自分に言い聞かせ、大きな伸びをした。
明日は美玲に会いに奥院へ行くこう。きっと楽しいお喋りができるはず。それに叔母の藤花の様子も見に行きたい。吽助も寂しがっているかもしれない。
落ち着いて考えると、やりたいことがそれなりにある。
そう思うと少しだけ元気が出てきた。
その時──。廊下で何者かの気配がした。
「?」
なんだ、と紫月は振り返る。そこに二つ鬼の男の影が一つ。
葵──、と声を発しかけて紫月はそれを飲み込む。
「鬼伯……」
裾に金糸の刺繍が施された袴を履き、片手には豪奢な大太刀。一瞬、大好きな二つ鬼と見間違えた。しかし、その容貌は彼と似ているが、全く非なるもの。
紫月はさっと居ずまいを正して頭を下げ、とにもかくにも礼を執る。混乱している気持ちは──、ひとまず脇へと追いやった。
旺知が無遠慮な足取りで部屋に入ってくる。そして彼は、紫月の前まで来ると片膝をついた。
「月詞を歌ってはおらんのだな」
「は、」
「いつでも歌っているかと思っていた」
「……」
そんな話をするために、わざわざ来た訳ではないだろう。緊張できゅうっと喉が痺れ出すのが分かる。
何より今は母親が留守で、鬼伯と対等に話せる者がいない。そもそも、鬼伯が来ているというのに、侍女の波瑠が出てこない。
と、ふいに旺知が紫月の腕を取り、引き上げる。
今度はなんだ?
戸惑う彼女に向かって旺知は平然と言った。
「寝間はどこだ? 案内しろ」
「……寝間、ですか」
いきなり何を。
捕まれた腕がぞわりとする。本能的に逃げなければと思った。
紫月は顔を強ばらせ、ほんの少し抵抗の素振りを見せた。旺知がそんな彼女に、少し苛立った顔をした。
「何も分からぬ小娘でもあるまいし。いいだけ
「──は、波瑠!!」
紫月は旺知の手を振り払うと、ばっと立ち上がり身を翻した。旺知がすかさず大太刀を脇へと放り投げ、紫月を後ろから抱きすくめる。二人は足がもつれてそのまま一緒に転んだ。
どんっと派手な音が鳴り響く。棚の上の一輪挿しが倒れ、鴨居にかけてあった深芳の市女笠がぼたりと床に落ちた。
「や──っ」
旺知が背後から紫月の体に覆い被さってきた。男の太い足が、彼女の両足を割って入ってくる。
「やめて! 波瑠!!」
「あれは土間でしばらく動けまい。なに、深手を負わせたが、死にはせん」
旺知の低く威圧的な声が耳元で響いた。
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