4 七洞親子の立ち聞き

 与平が独歩とともに火トカゲの件を調べるために里中へと出かけ、日も傾き始めた夕刻、この時間には珍しく奥院に深芳が訪れていた。


 今日の訪問の目的は千紫ではなく美玲である。彼女からとある手紙を受け取ったからだ。

 手紙には、「紫月のことで内密で相談したいことがあるので、本日夕刻に会ってもらえないか」といった内容が上品な文字でしたためられていた。

 はかりごとが常の奥院である。千紫に相談する前に母親である自分の意見も聞きたいと書き添えてあった。娘がまた何かに巻き込まれたのかと、深芳は頃合いを見計らい奥院へと出向いた。


 内密の相談であるので、先触れもせずに伯家専用の伯礼門からひっそりと奥院へと上がり、その場にいた侍女に適当な客室へと案内してもらう。

 通常であれば千紫を呼び出せとなるのだが、きっと彼女はまだ執務の時間帯だ。邪魔をするのも申し訳なく、帰りにちらりと顔を見せればいいだろうと、深芳は案内をしてくれた侍女に「何も告げなくていい」と言い添えて、美玲だけを呼び出すよう頼んだ。


(さて、此度はいかなる厄介事か)


 西日が差し始める庭に咲くハナミズキを眺めながら深芳はため息をついた。




 一方、美玲は紫月が奥院に来ていないことをいいことに執院で父親の手伝いをしていた。今日は資料庫の整理である。滅多と誰も訪れない資料庫には、ところ狭しと書物が乱雑に積み上げられている。

 そのほこりっぽい床に並んで座り、親子二人でのんびりと作業をしていた。


「お父さま、こちらの歴史書はどうすれば?」

「ああ、それは向こうの棚にまとめようと思うから、ひとまず隅にでも置いておいてくれ」


 本の分類は思った以上に大変だ。同じ歴史書でも、政治的なものから、庶民の生活のもの、人の国のものなど──、年代も違えば、内容も筆者も違う。

 これを分かりやすく整理するとなると、それなりの時間がかかりそうである。後で少しでも作業が楽になればと美玲は分類を試みるが、口から自然と唸り声が出てしまった。

 利久が娘の声を聞いて苦笑する。


「分からなければそれとなくまとめておいてくれていい。悪いな、今日はだったのに」

「いいえ、お父さまの仕事をゆっくり手伝えて楽しいわ」


 こうした誰も気づかない仕事を黙々と続ける父親が美玲は大好きだ。執院が今日もちゃんと回っているのは父親があってこそだと彼女は誇りに思う。中には「小間使いの利久」と馬鹿にする者もいるが、奥の方や伯子など、ちゃんと見てくれる方もいる。


「あら、これは人の国の雑誌ね。ちょっと古そうだけど、紫月が喜びそうね」

「……奥院では無理はしてないか?」


 掘り出し物を見つけたと喜ぶ娘に利久がふいに尋ねた。美玲は雑誌を握りしめ、「無理なんて、」と笑顔を父親に返した。


「家で歌のお稽古をしていた時よりずっと楽しいわ。紫月は奥院の事情には疎いし、伯子はてんで彼女を甘やかすし、私がいないとダメなのよ」

「そうか。側妻そばめとして上がるつもりは?」

「……お母さまみたいなことを言わないで。本当にそういうのいいの」

「そうか、ならいい」


 朴訥ぼくとつな父親は口下手なので多くを語らない。きっと不本意な形で奥院に上がることになった娘を心配しているのだろう。

 その時、資料庫の外で誰かの気配がした。(こんな所に一体誰が?)と、利久と美玲は思わず息を潜めた。

 すると、こちらに気づかない誰かが、押し殺した声で話し始めた。


「七洞の姫の名で手紙を送りましたら、落山の方が奥院にいらっしゃいました。今は南舎みなみやの客間で偽の手紙とは知らずに七洞の姫を待ち続けているようです。何も知らない奥侍女が執院にまで七洞の姫を探しに来たので、あちらで見たと適当に返しておきました」

「ふむ、それでいい。今、落山の方に屋敷へ戻ってもらっては困るからな。伯にはおよそ一時いっときほどと伝えてある。それだけあれば、それなりに楽しめるであろうよ。の息抜きにもちょうどいい」

「あの……、落山の姫が鬼伯の手つきとなれば、本当に私めを碧霧さまの側に置いていただけるので?」

「もちろん、約束しよう。そなたは器量良しであるから側妻そばめも夢ではない」

「ありがとうございます!」


 上気した様子の女の声が漏れた。


 一体、これは何の話か。

 明らかに、鬼伯が娘に乱暴を働くため、母親の留守を狙って落山へ出かけているという話だ。


 美玲の体がカタカタと震えだす。両手をぐっと握りしめると、そこに父親の手が乗った。

 利久は息を潜めて美玲を見つめると、「絶対に動くな」と目で言い聞かせた。そして二人、瞬き一つすることなく、ひたすら息を殺し続けた。

 しばらくして、外で話し合う二人の気配が消える。ようやく、利久親子はふうっと肩の力を抜いた。

 刹那、美玲が利久ににじり寄った。


「お父さま、一刻も早く知らせなければ──! あの声は清音という侍女です。あの女は普段から紫月の悪口ばかり言いふらし、私が奥の方にお願いして配置替えをしてもらったのです。彼女ならやりかねない。私、落山の御方さまのところへ今すぐ行ってきます!!」

「待て、美玲。落ち着け」


 顔を強ばらせ、利久が娘の両肩を持つ。そして彼はあれこれと思案してから、ゆっくりとした口調で美玲に言った。


「御用方は、どこで何を聞こうとも決して口にすることはない。だからこそ、御座所おわすところのいかなるところにも入り込むことができる。今までもそうであったように、これは絶対に守らなければならない」

「でも、じゃあどうすれば──?!」

「美玲はこのまま素知らぬ顔で家に帰りなさい。後は、この父に任してくれないか」


 不安で泣き出しそうになる娘に利久が言い聞かせた。

 娘は気づかなかったかもしれないが、もう一つの声の主は次洞佐之助である。下手をすれば美玲の立場も悪くなる。もはや、これは娘の手に負える案件ではなくなっている。

 利久はおっとりした笑顔を娘に返しつつ、冴えざえとした視線を床に落とした。

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