3 消えた火トカゲ
次の朝、衣擦れの音で紫月は目が覚めた。奥院は紅梅の間、朝のひんやりとした空気を感じながら音のする方へぼんやりと目を向ける。と、ちょうど黒の武装束に着替え終わった碧霧が立っていた。
「葵、もう行くの?」
昨夜の余韻が残る体を紫月は慌てて起こした。辺りはまだ薄暗い。
彼女は、傍らに脱ぎ捨ててあった肌衣をかき寄せた。
「寝てていいよ」
碧霧がいつもの調子で優しく笑う。紫月は恨めしげに彼を睨んだ。
「また黙って行くのね」
「また?」
「だって……」
確かに、あの時はすぐに迎えに来てくれたけれど──。
同時に、きょとんとする碧霧を見て、彼にとってあれは黙って行った内には入らないのかとも思う。紫月は言いかけた言葉を引っ込めた。
それよりも今は彼をちゃんと見送りたい。彼女は立ち上がると、自分も着替え始めた。
「見送るわ」
「いいよ。そんな起き抜けの姿、他の奴らに見せたくない」
言って彼は、紫月の手を止めると、はだけた衣服ごと彼女を抱きしめた。
それから唇に口づけを一つ落とし、「ここでいいから」と彼女に言って聞かせた。
紫月は口を尖らせてしぶしぶ了承しつつ、碧霧の胸に手を添えた。わりと着痩せして見えるが、実際に触るとごつっとした厚みのある男の胸だ。
「無茶はしないでね」
「分かっている」
「
「そうだな。その選択も探ってみるよ」
「私が必要なら遠慮なく呼んで」
「うん、」
「あと──」
「紫月、」
碧霧が困った顔で笑った。そして彼は、彼女の両手を握り締め、話を打ち切るように再び口づけた。
「ちゃんと帰ってくるから、待っていて」
「……分かった」
しばらく会えないというより、自分の手の届かないところに碧霧が行ってしまうのが嫌だった。
「じゃあ戻ってきたら、
思わず今はどうでもいい要望を口にする。碧霧が少し戸惑った顔をした。
「どうして?」
「この部屋は、葵が来てくれるのを待つだけの部屋だもの。自分で自由に行動できる部屋が欲しいの」
「分かった。考えとくよ」
「約束よ」
帰ってきてからの約束を交わす。しかしそれだけでお互い笑顔になった。
が、それも束の間、碧霧はすぐに顔を引き締めた。
「行ってくる」
刹那、紫月の手から碧霧の指がすり抜けていく。碧霧はさっと踵を返すと、強い眼差しで前を見据え、迷いのない足取りで部屋を出ていった。
誰もいなくなった部屋、紫月は身なりをそこそこ整えてから廊下に出た。そして、空が少しずつ白んでいく様子を独りぼんやりと眺め続けた。
どれぐらい経った頃だろう。朝の柔らかな日差しが雲を朱色に照らし始めた時、西の空に向かって駆けていく騎馬隊の黒い一団が見えた。
碧霧が、西の領境へと旅立った。
碧霧が出征して数日、
今日も吏鬼たちは忙しなく働き、遠くからは六洞衆の鍛練の声が聞こえる。その鍛練場、午後から珍しく三番隊長
今回、西の領境へ援軍に出向いたのは一番隊と五番隊。三番隊は居残り組である。とは言え、勘定方筆頭でもある与平が、こんな真っ昼間から鍛練場にやって来るのは珍しい。
春の宴以来、執院では深芳に関するある噂がまことしやかに囁かれている。彼女が
噂の原因は分かっている。春の宴で、深芳が千紫の隣を陣取って旺知の相手をしていたからに他ならない。
今日も、仕事の途中で部下の吏鬼たちが休憩がてらにその話を始めた。
旺知に見せた笑顔は本物だっただの、艶っぽい流し目は旺知を誘っていただの、すでに旺知は落山に通っているだの、正直、聞くに耐えない内容ばかりだ。それで部屋から逃げてきた与平は、ここ鍛練場で憂さ晴らしをしている訳である。
どいつもこいつも適当なことばかり言いおって、と与平は思う。
彼女が本当に笑った時は、もっと顔がふにゃっとなる。こちらを誘う時は、もっとねだるような目をする。
彼女がどんなに可愛い仕草をするか、誰一人知らないくせに。
折しも、与平に稽古をつけてもらっていた六洞の若鬼たちが木刀を振り上げて一斉に攻撃をしかける。
しかし与平は、若鬼たちの攻撃を目にも止まらぬ素早さで打ち返すと、そのまま内心の怒りとともに彼らに容赦のない渾身の一撃を食らわした。
あっという間に与平の周りに呻き声を上げる若鬼たちの無惨な姿が転がる。与平は、遠巻きに見ている他の隊員に目を向けた。
「……次は、誰だ?」
今日の三番隊長はなぜだか機嫌がめちゃくちゃ悪い。こんなの、誰が相手をするというのだろう。
その敵を射るかのような鋭い眼に隊員たちは震え上がった。
しかしその時、一人の吏鬼が鍛練場に入ってきた。
「
息を切らしながら駆け寄った吏鬼は、来るなり「早くお戻りを」と与平を急かした。与平が怪訝な顔を返した。
「どうした。今日の仕事は片付けたはずだが?」
「いいえ、そうではありません」
ふうっと大きく息をつき吏鬼が首を左右に振る。そして彼は、あらぬ方向を指差した。
「与平さまに目通り願いたいと里中の商人が
「里中の商人?」
「
「……分かった。すぐに行く」
独歩は、伯子が赤鉄を売りさばくために取り立てた商人だ。遠征前に碧霧から赤鉄のことを頼まれた与平は、彼のことも聞いていた。
彼はすぐさま十一門へ向かった。
十一門は身分の貴賤に関わらず通行を許された者なら誰でも通れる最も一般的な門である。小さな屋根を構えただけの簡素な門に到着すると、一つ目のあやかしが手もみをしながら与平が現れるのを待っていた。
与平は額の汗を拭いつつ独歩に声をかけた。
「儂が下野与平だ」
「ああ、あんたがそうか。俺ぁ、独歩っていうモンだ。伯子に赤鉄の販売を頼まれて……」
「聞いている。前置きはいい、どうした?」
大きな一つ目を歪ませて慌てる独歩を片手で制止しつつ与平が問う。すると独歩は、信じられないといった顔で唸った。
「俺が売りさばいた火トカゲが──里中から一匹残らずきれいさっぱり消えてしまったんだ」
「火トカゲが、消えただと?」
「ああ、そうだ。おかげで朝から金を返せと客が押しかけて大変な騒ぎになってんだ」
そんな馬鹿な。
にわかに信じられない事態に与平もすぐには言葉が出てこない。額に浮かんでいた大粒の汗が、与平のこめかみをつうっと流れ落ちた。
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