5)月欠ける夜

1 碧霧の出征

 明日、碧霧が西の領境へ再び遠征する。

 このことを彼から聞かされたのが三日前。今度は連れて行けないと、きっぱりと告げられた。

 こっそりついて行こうかとも考えたが、それもばっちり読まれていて、「ついてきても送り返すからな」と釘を刺されてしまった。

 さすがにここまで言われては、大人しく待っているしかない。


 新緑薫る昼下がり、南舎みなみやの客間で、今日の紫月は洞家衆の奥方たちと会っている。正直、今はそんな気分ではないし、こんなことのために奥院に来ている訳でもない。

 しかし、肝心の碧霧は遠征前の残務整理でゆっくりと会うことさえかなわない。

 となると、暇な時間はこうやって「姫」としての務めをするしかない。


 今日来ているのは、三洞みと家、五洞ごとう家、七洞しちどう家、そして八洞やと家の四人だ。春の宴の後、「落山の姫に挨拶をしたい」という申し出が各家からあり、美玲が千紫と相談して茶話会という形にした。その方が一人ひとりを相手せずに済むし、互いに牽制し合って上辺だけの会話で終わるだろうというのが主な理由である。


 洞家筆頭の次洞じとう家は所用のために欠席である。今の鬼伯と伯子の関係を考えれば、名実ともに鬼伯の側近である次洞家がわざわざ挨拶に来るとは思えなかった。そして四洞は、単身の蟲使いでそもそもですらないらしい。


 ちなみに、六洞家の初音も来ていない。最後に碧霧と端屋敷はやしきに訪れた日、藤花は急に具合を悪くした。あれからずっと体調を崩しているらしく、初音は連日のように端屋敷に通っていると左近から聞いた。紫月にとっては、気がかりなばかりだ。


「紫月さま、月詞つきことを里外でも一度ご披露くださいませ。夫が土地を肥やすのにぜひ試してみたいと」


 そう言うのは三洞みと家の奥方である。三洞家当主は地守つちのかみだ。

 すると、五洞ごとう家の奥方が「ほほほ」と笑い声を上げた。


「あら、三洞みとさま。野畑で歌うなど下賎の者がすること。そのように気軽に歌える訳がございません。それよりも紫月さま、宝玉はお好きではございませんか? 先日、珍しい色の石が遠峰の岩肌から出てきたそうです。夫に言って、持ってこさせましょう」


 五洞家当主は山守やまのかみだったなと、紫月は目まぐるしく頭を回転させつつ頷く。

 今度は三洞家の奥方が「ほほほ」と笑い声を上げた。


五洞ごとうさま、紫月さまに何の石かも分からぬ物を献上なさるおつもりか。よくよく吟味されるが肝要かと。それは赤鉄かもしれぬ」

「なんと!」

「ちょっ、ちょっと待って」


 なんでこの程度の会話で喧嘩になる?

 紫月は三洞みと五洞ごとうの夫人のやり取りを慌てて止めた。


「三洞さま、地守つちのかみにはいつでも行くって伝えて。野畑で歌うの大好きだから。そして五洞さま、珍しい石をぜひ見てみたいわ。今や赤鉄だって立派な売り物よ」


 二人の言い分を一気にすくい上げて話をまとめる。どちらの肩を持つ訳にもいかないし、どちらにも角が立ってはいけない。

 隣に座る美玲をちらりと見ると、彼女は「紫月さまの言う通りでございます」と頷いた。どうやら、この回答で大丈夫らしい。紫月はほっと胸を撫で下ろした。


 とは言え、無駄に疲れる。ぶっちゃけ、早く終わってほしい。


 そう思った時、誰かの足音がこちらに近づいてきた。と、いきなり碧霧が姿を見せた。


「紫月、こんなところにいた」

「葵、」


 その場にいる全員がさっと居ずまいを正し、碧霧に向かって低頭する。その中を紫月は立ち上がって彼に歩み寄った。


「どうしたの?」

「今日はさすがにこれで切り上げてきた。少しゆっくり過ごせるな」

「本当?」

「うん」


 言って碧霧は、面前であるのも気にしない様子で紫月の頬に口づけた。

 八洞やと家の奥方が「ふふふ」と可笑しそうに笑った。


「どうやら、私たちはお邪魔なようでございますよ。皆さま、これでおいとまいたしませんか? 碧霧さまは明日にも出立される身。お二人の時間を作って差し上げないと」


 その言葉を受け、美玲がここぞとばかりに素早く立ち上がった。彼女も切り上げるなら今しかないと思ったらしい。


「では、私が皆さまをそこまでお送りいたします」

「美玲、私も……」

「いいえ、紫月さまは碧霧さまと東舎ひがしやへ。後は美玲にお任せください」


 にこりと笑い美玲が紫月の申し出を遮った。要はさっさと部屋に戻れと言いたいのだろう。


「紫月、今日は泊まっていくだろ?」


 ぞろぞろと帰っていく奥方たちを見送りながら、碧霧が艶っぽい声を耳元で響かせた。




 その頃、左近は曲坂まるざか通りの路地角に立ち、大通りを行き交うあやかしたちの姿をじっと見つめていた。

 忙しなく先を急ぐ猫の娘、所在なくぶらつく一つ目、物珍しそうにきょろきょと見て回るの人間っぽいのは狐か狸か。集まるあやかしも、その目的も多種多様である。

 そんな中、小幅ではあるがしっかりとした足取りで先を急ぐ一つ鬼の女を見つける。小包を抱え、粗末な小袖を着た使用人のなりではあるが、控え目な容貌は慎み深い良家の娘を思い起こさせる。

 左近は大通りに飛び出ると、彼女に向かって声をかけた。


「加野、」

「……左近さま?」


 加野が立ち止まって驚いた顔を左近に向けた。左近は、素早く彼女の手を取ると、有無も言わせず歩き出した。


「時間はあるか? こっちへ」


 左近は戸惑う加野の手を引きながら通りをぐいぐい歩いていく。

 そして彼は細い路地へと入り、どこかの民家の板塀の勝手口をくぐる。戸口には「花月屋」という表札が掛かっていた。

 ようやく左近が手を離し、小さな裏口の戸をからりと開けた。


 すると、「いらっしゃいませ」とくりっとした目の童女が左近たちを出迎えた。

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