9.垣間見《かいまみ》

 春の宴から半月ほど経った。


 奥院に清らかな歌声が響き渡る。独特な抑揚を持つ旋律は、軽やかな言葉を乗せてどこまでも広がっていく。

 そして、その歌声を聞いて、かの歌姫が今日は奥院に上がっているのだと誰もが知る。


 春の宴で紫月が月詞つきことを披露してから、彼女は奥院でも堂々と月詞を歌うようになった。しかし決して自慢たらしくもなければ、押しつけがましくもない。まるで、子供が童歌を口ずさむように、彼女は気が向いた時に気が向いた言葉を紡ぐ。

 初めて聞く者はその不思議な歌声に酔いしれ、月詞を知っている者はその自由な旋律に感嘆の声を漏らした。

 三百年ぶりに甦った歌は、全ての者を魅了していると言っていい。




 東舎ひがしやへと向かう廊下、旺知あきともがふらりと現れた。彼は、紅梅の間がちょうど対角線上に見える辺りでひっそりと足を止めた。

 気配を消して部屋の様子を伺うと、紫月が廊下に出て気持ち良さそうに歌っている姿が見えた。旺知は、そのあどけない面差しを食い入るように見つめた。


 あの宴の夜、まるで天地の祝福を受けるがごとくの神々しい歌声と清らかな姿に目を奪われたのは旺知も同じだ。あの時、手に持っていたさかずきを落とさずにいられたのは奇跡に近い。


 そして、それからというもの自分は何かおかしい、と旺知は思う。繰り返し思い出すのは、月詞つきことを天に捧げる娘の姿。今日も歌声に誘われて、その姿を見に来ている。

 たかだか宵臥の、それも自分の息子とさして変わらない年の小娘の姿をだ。


 旺知にとって女はいつでも飾り物でしかなかった。自分の力を誇示するための言わば宝玉のような物だ。

 だからこそ身分の高い女、見目麗しい女、教養の高い女、いろいろな女を側に侍らせた。

 千紫を正妻としたのも、当時、彼女が二つ鬼であるにも関わらず深芳の親友であり、元伯家の嫡子が懸想していたからに過ぎずない。

 なぜなら、自分の力を誇示することが彼の全てであり、存在を明らかにするすべだったからだ。

 自分に利となる女か否か。女の存在価値など、ただ、それだけだった。


 政変後、元伯家の姫であり、里一の美姫と謳われた深芳を生け捕りにした。しかし、彼女は気位が高く、あろうことか自分を品定めしようとしてきた。ちょうど千紫が深芳の処遇について口を出してきたこともあって、旺知は、深芳を兄でありである成旺しげあき側妻そばめにするという妻の提案を許した。

 奥院の暮らしが懐かしくなれば、嫌でも自分になびく時が来ると、旺知は思っていた。


 しかし、深芳はなびくことなく成旺しげあきとの間に娘をもうける。そして、公の場に全く姿を見せなかった娘は、我が息子の宵臥よいぶしとして突然召し上げられた。

 最初、この話を耳にした旺知は、「所詮は女の浅知恵」と笑った。

 つまるところ、千紫は深芳の子が欲しく、深芳は奥院に戻りたがっているのだと、そう思ったのだ。


 ところがどうだ。召し上げた娘は、宵臥の務めを拒否して逃げ出し、そのまま沈海平しずみだいらの遠征について行ってしまった。挙げ句、かの地で忘れ去られた歌を歌い始めた。

 沈海平から帰還させて対面すると、娘は高慢な女そっくりの物言いをした。加えて、何かと反抗的な息子が「妻にする」とまで言い出した。


 それでも、旺知にはまだ余裕があった。

 本気で相手にするほどのものではない。所詮は力のない息子となし者の娘。嫌味の一つを言ってしまえば、それ以上の興味は失せた。


 そう、春の宴で彼女の歌う姿を見るまでは。


 ふと、紫月の歌が止まる。彼女がぐるりと顔を巡らせた。

 旺知はとっさに物陰に隠れた。こんなところで覗き見をしているなど、知られるわけにはいかない。慌てる自分に心がぐらつく。

 

 と、紅梅の間の奥から碧霧が現れた。どうやら執務を抜け出して来ていたらしい。

 歌を途中で止めたのは、彼に話しかけられたからか。紫月は笑顔で息子を迎え、彼が隣に座る。歌姫は迷うことなく彼の胸にことりと体を預けた。その柔らかな眼差しは、ただまっすぐに息子に向いていた。


「……」


 旺知は、言い様のない不快感に襲われ、踵を返してその場を去った。

 なぜ自分がこんなに動揺するのか分からなかった。

 足早に奥院を後にして、執院へと通じる渡殿わたどのまで辿り着き、そこでようやく歩調を緩める。しかし、腹の底から湧いて出てくる怒りにも似たムカつきは、どうにも収まりそうになかった。


 その時、


「ああ、伯!」


 廊下の向こうに次洞じとう佐之助が立っていた。

 彼は旺知の姿を認めると、見つけたとばかりに走り寄ってきた。


「鬼伯、このようなところで。北舎きたやにでもお戻りだったので?」

「ああ。どうした、佐之助?」


 曖昧な返事をして、すぐさま佐之助の用件を問う。すると彼は、声を潜めて旺知に答えた。


「西の領境で、くれないからの攻撃です。援軍要請が来ました」

「またか……」


 領境では常に西の領の部隊が領境の柵を攻撃してくる。ちょっとした小競り合いで済む場合もあれば、今回のように援軍要請が来る場合もある。

 佐之助がさらに声を落とす。


「どうされますか? 沈海平しずみだいらのこともどうにかせねばなりますまい。鎮守府の平八郎からの報告によると、水天狗たちは赤鉄で莫大な利益を得ているとか。このまま奴らの好きにさせておくわけには……」

「うむ」


 旺知が嘆息しつつ頷いた刹那、不穏な会話をすくい取るように紫月の歌声が再び響き始めた。

 さっきより歌声に艶があるように感じるのは、隣に座る恋人のせいか。

 佐之助が「おや、」と苦笑した。


「女はのん気なものですな。こちらの気も知らないで」

「……碧霧を向かわせろ」

「え?」


 突然発せられた伯子の遠征命令に、さすがの佐之助も鼻白んだ。


「西の領境へですか?」

「その話をしていただろう」

「し、しかし、碧霧さまは沈海平へ昨年お遣わしになったばかり。それに、伯子があのような辺境へ遠征するというのは──六洞重丸が難色を示しませんか」

「かまわん。沈海平では大して戦闘もしていない。あやつに行かせろ。娘の同行はさせるな」

「……は、」


 旺知の有無を言わせない強い口調に佐之助が押される形で低頭する。

 そして、口の端をわずかに歪める旺知の顔を見て、ようやく彼はあるじの心中を察する様子を見せた。

 佐之助は東舎ひがしやの方向を見やりながら含みのある口調で旺知に言った。


「こちらが言うまでもなく、さすがに今回は連れては行けんでしょう。長丁場にもなる。残された姫は寂しいかもしれませんが」


 旺知は、「それがどうした」と鼻を鳴らす。


「あの娘はただの宵臥だ。伯家のために歌い、伯家のために体を差し出すだけよ」


 そう。その相手が──、伯子である必要もない。

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