8.中途半端な男

 左近と右近が碧霧の部屋に着くと、碧霧が紫月を抱きかかえたまま座り込んでいた。その姿は、まるで大切なおもちゃを壊されて部屋に閉じこもってしまった子供のようだ。


「碧霧さま。紫月さまの容態は?」

「分からない。息はしている、というだけだ」

「とにかく横に寝かせて差し上げましょう。右近、へ寝床を用意させるよう手配を」

「はい」

「布団なら俺のがある。ここに寝かせればいい」


 部屋を出ていこうとする右近を碧霧が止める。右近が「あのね」とばかりに呆れ顔を返した。


「いい加減にしてください。倒れられたとは言え、碧霧さまの部屋に寝泊まりさせるなんて、紫月さまが情婦のそしりを受けますよ」


 例え妻であったとしても部屋は別、必要な時に夫が妻の部屋に渡るのが奥院の通例である。それを、正式な婚礼もまだの姫君を自分の部屋に囲い込むなんてあり得ない。

 碧霧がむすっと押し黙る。手元に置いておきたい気持ちは分からないでもないが、これではただの駄々っ子である。

 それで右近がさらに言葉を連ねようとした時、碧霧の腕の中で紫月がぴくりと動いた。

 彼女が、「ん……」と言葉にならない声を漏らした。


「紫月っ」


 碧霧の呼びかけに、ゆっくりと紫月が目を開けた。まどろんだ瞳があちこちに泳ぎ、やがてそれは碧霧を見定めた。しかし、まだ意識が混濁した状態である。

 碧霧は紫月の左手を取ると、甲や手首に口づけた。


「紫月、俺が分かる?」

「……葵、」

「そうだ、ここにいる」


 二人のやり取りを見て、左近が右近に目配せをする。右近が頷き、身を翻して部屋を出ていった。

 左近がやんわりと碧霧に声をかけた。


「碧霧さま、紅梅の間に寝床が整いましたら呼びに来ます。それまでこちらでお待ちください。紫月さまを頼みます」

「……分かった」


 ようやく碧霧が了承した。少し落ち着きを取り戻した伯子の様子を確認しつつ、左近も静かに部屋を離れた。


 左近の気配がなくなり、碧霧は再び紫月に話しかけた。


「紫月、頼むから勝手にどこにでも行かないでくれ」

「ごめんなさい……」


 紫月はあらためて周囲を見回して、ここが碧霧の部屋であることを確認する。乱雑に積まれた書物と散乱した紙、そして庭には火トカゲの入った檻──亡くなった彼女の父、九洞くど成旺しげあきの部屋をどことなく思い起こさせる部屋である。


「夢を──見ていたの」

「夢?」

「うん……不思議な夢……。真っ白な装束に白銀の髪の子供が目の前に現れて……。名前を尋ねたら、名を聞く覚悟はあるかと返されたわ。それに──……」


 ぽつりぽつりと紫月が呟く。自分が見た夢をゆっくりとなぞるように。

 しかし彼女は、小さく息をついて話を途中にし、碧霧に身を預けてきた。心もとなく甘えてくる紫月を、碧霧が強く抱き締め返した。


「今は何も考えなくていいから。とにかく休んで」

「うん」


 碧霧の腕の中、紫月は再び深い眠りについた。




 その後、碧霧は紫月を紅梅の間に運んだ。部屋では深芳と美玲が待っていて、しばらくして千紫も様子を見にやって来た。

 ひとまず春の宴は無事に終わったらしい。紫月の月詞つきこと披露は、一部の者にしか知らされておらず、皆が動揺を隠せないままの散会となった。

 深芳と美玲は、紫月がさっき一度だけ目覚めたことを先に聞いていたらしく、落ち着いて眠り続ける彼女の姿を確認すると、「夜も遅いから」と紫月をこちらに預けて引き上げていった。

 母親の千紫も遠慮して、深芳と美玲を見送ってからそのまま自室へと戻った。


 それから、碧霧は寝間着を左近に持ってこさせて着替えた。右近は明日の朝には沈海平に出発するので、六洞家へ戻ったとのことだった。

 二人きりになって、碧霧は寝ている紫月の隣にもぐり込んだ。彼女は、着ていた打掛や小袖も脱がされ、肌衣一枚だけの格好になっていた。

 後は一緒に添い寝をし、彼女の寝顔を見続けて一晩を明かした。




 そして早朝、碧霧は腕の中でもぞもぞと紫月が動く気配に気づいて目が覚めた。


「紫月、具合はどう?」


 あらためて彼女を抱き寄せて優しく声をかける。お互い薄着であるので、密着した部分から肌の温もりがじかに伝わってくる。紫月が気恥ずかしそうに丸まった。


「大丈夫。私、泊まっちゃったのね。帰らなきゃ」

「駄目。しばらくここから出さない」

「葵、」


 紫月が困った顔で眉間にしわを寄せる。こういう束縛は彼女の最も嫌うところである。しかし、碧霧はかまわず話を続けた。


「怖い夢は見なかった?」

「夢?」

「昨夜、夢を見たって不安がっていただろ」

「ああ、あれね……」


 思い出したように紫月が相づちを打った。しかし、それ以上は何も言おうとせず、彼女はそのまま口をつぐんでしまった。


「紫月?」

「ううん、なんでもない。どんな夢だったか──、忘れちゃった」


 会話を切り上げるように呟いて紫月が小さく笑った。何か隠しているようにも感じるものの、碧霧はそれ以上問い詰めることをやめた。

 それより、その揺らぐ瞳を見ていると、彼女が再びどこかに行ってしまいそうな不安にかられる。


「紫月、ちゃんとこっちを見て」


 碧霧は紫月の頬を両手で持ち上げ自分に向かせると、頭上の角から順に、額や頬、首筋に口づけを落とした。紫月が戸惑いながら体を押し返す。


「朝から、どうしたの?」

「なんとなく」

「なんとなくって──」


 いよいよ戸惑う彼女の口を強引に塞いで深く唇を絡ませる。そのまま気持ちを押しつければ、流される形で紫月が応えた。


 紫月はとにかく同調しやすい。だからこそ、天地あまつちにも心を持って行かれそうになるし、こちらの気持ちにも感化されて流される。

 どこまで自覚があるのか、それが天地以外では自分に対してだけなのか、それは分からない。けれど、それをはっきりと利用している自分がいることは確かだ。


 誠実であろうと思う心の中、真っ黒い利己的な獣がいる。両者はいつだってせめぎ合い、正論と甘言を耳元で囁いてくる。


(中途半端な男ほど、どうしようもないものはない──)


 かつて深芳に言われた言葉を思い出し、碧霧は自身をせせら笑う。そんなこと言われなくても分かっている。

 ゆっくりと唇を離し紫月を見つめると、彼女がはにかみながら笑った。

 その愛しい瞳に映るのは、紛れもなく自分の姿。碧霧は大いに満足する。


 今、彼女の心を支配しているのは、果たして誰の感情ものか。


 そんなことはどうでもいい。考える必要もない。紫月には笑っていて欲しいだけだ。その気持ちに嘘偽りはない。

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