7.白銀の子

 真っ暗な闇の中、淡い光が降り注いでいる。

 あれは月の光だ、と紫月は思う。そして、その光の下、白銀の髪に真っ白な水干姿のわらべが立っていた。


の呼びかけに応じたのは八百年ぶりか。天地あまつちを繋ぐ歌を奏ずる者よ」


 彼女は、その子供に近寄ると「誰?」と話しかけた。

 童は月の光のような白銀色の瞳をすいっと細め、上空を指差した。


「月の光にして影。そして、刃なり」

「刃……」


 全く意味が分からない。そもそも、ここはどこだ? 自分は宴の席で月詞つきことを歌っていたはずだ。

 今夜は月の光が眩しいほど煌めいていて、木々の声も風の音も何もかもが鮮明に感じた。言葉を紡ぎ始めてすぐ、自分を取り巻く全てのものが応えてくれたのが紫月には分かった。

 今夜の月が特別だったのか、それともあの場所が特別だったのか。

 その後、体の中に大きな力が流れ込んで来たのは覚えている。そして今、ここにこうして立っている。


 紫月は再び童に問う。


「私は紫月。あなたの名前は?」

「そも、おまえに吾の名を聞く覚悟はあるか?」


 名を尋ねると、逆にその覚悟を聞き返された。

 紫月は戸惑いながら少し考えた後、「ごめんなさい、ないわ」と答えた。

 童がすいっと目を細め、小首を傾げた。


「ならば、おまえはただの伝える者。吾の器。知る必要はない」


 言って彼は、紫月の左手首を指差した。


「その者を連れて来い」

「……」


 あらためて自分の左手首を見れば、鈍い光を放つ黒金色の鎖が絡まり、闇の向こうまで延びている。

 紫月が手首を持ち上げると、鎖はじゃらりと低い音を立てた。


「これは?」

「おまえを強く縛り、繋ぎ止める者。今も、おまえを呼んでいる」


 それはきっと──。


「……葵、」


 紫月がその名を呟くと、彼女の姿は一気に闇に飲み込まれ、あっという間に消え去った。

 白銀の髪をもつ白装束の童は、今まで紫月が立っていた空間を見つめ、独りふうっと小さいため息をついた。




 碧霧は紫月を抱いて、足音も荒々しく奥院へと向かっていた。

 歌の途中、紫月が意識を失った。

 天と地と、全ての御霊みたまを呼び覚ますような歌声がぷつりと途切れ、彼女を包む淡い光も消えた。


 何が起こったのか。あそこまで天地あまつちを震わす歌は、碧霧も聞いたことがなかった。


 さすがの旺知も驚きを隠せない様子で、目の前で倒れた姫君の姿を息を飲んで見つめていた。面前であることもはばからず、碧霧は彼女をさっと抱き上げた。


「父上、母上、このまま失礼します」


 一方的にそう告げて、碧霧は影霊えいりょう殿を後にした。

 とにかく一刻も早くこの場を離れたい。

 ざわつく群衆の中、「もしやあれが天地あまつち御詞みことというものでは」と上ずった誰かの声が、碧霧の耳たぶを打った。


 執院を抜け、そのまま東舎ひがしやへと向かう。背後から「待って!」と美玲が追いかけてきた。


「何があったの?」

「分からない」

「分からないって、どういことよ?」

「……」


 碧霧はそれ以上何も言わずにどんどんと歩いていく。そして、紅梅の間まで来て、彼はそこも通り過ぎた。


「どこへ──?!」

「俺の部屋で休ませる」

「え──、私が入れないわ!! ちょっと、碧霧さま!!」


 さすがに側妻そばめでもない美玲が伯子の部屋に入ることは許されない。思わず美玲は怯んで立ち止まり、碧霧の背中に向かって叫んだ。

 しかし碧霧は振り返ることもなく奥へと姿を消した。

 美玲は、「もうっ、あのワガママ伯子!!」と独り毒づいた。


 と、そんな彼女の肩を誰かがふわりと抱き止める。美玲が振り返ると、そこに深芳が立っていた。


「落山の御方さま!」

「さすがの私も無断でこれ以上は進めぬな」


 深芳が小さく嘆息した。折しも、左右の守役が慌てた様子で現れた。

 二人は紅梅の間の前で立ち往生している深芳と美玲の姿を認めると、彼女たちに声をかけた。


「碧霧さまと紫月さまは?」

「奥へ消えた」

「自分のお部屋に連れていってしまわれたわ」


 左近が大きなため息とともに片手で額を押さえ、右近が「マジですか」と顔をひきつらせた。非常時とは言え、姫君を自身の部屋に連れていくなど非常識にも程がある。

 深芳が苦笑混じりに言い添えた。


「我らはこの部屋で待つゆえ、様子を見てきてもらいたい」

「分かりました。行くぞ、右近」

「はい」


 二人が緊張した面持ちで奥へと消えた。美玲は、その後ろ姿を歯がゆそうに見送った。

 六洞りくどう家の右近は、側妻そばめでもない女であるが伯子の部屋に入れる。それは彼女が守役という立場であるからだ。同じ洞家の姫でも、担う役割と立場が違えば、こんなにも動きに差が出る。

 今、肝心なところで「女」であるという理由で身動きが取れない自分が、美玲にとっては軽い屈辱だった。


「制約のない六洞の姫が羨ましいか?」


 深芳に声をかけられ、美玲は思わず苦笑する。悔しさが、思いっきり顔に出ていたらしい。

 そんな彼女を紅梅の間へと促し、深芳が部屋の燭台に鬼火を灯す。そして深芳は七洞の姫を優しく座らせ、自分は彼女の向かいに座った。


「こうして話すのは初めてじゃの。落山じゃ」


 あらためて深芳が挨拶をする。美玲が緊張した面持ちで頭を下げた。


「七洞利久が娘、美玲にございます」

「うむ、紫月からいろいろ聞いておる」


 切れ長の目を優美に細め、里一と謳われる美しい女性が柔らかに笑う。美玲はいよいよ顔を強ばらせた。正直、同じ空間にいるのが辛い。この緊張感はあれだ。奥の方千紫と似ている。

 気後れして縮こまる美玲に深芳は言葉を続けた。


「今宵の宴の準備のみならず、紫月が何かと世話になった。迷惑も──かけたの。利久殿に謝りたいが、私が謝るのも筋違いな気がしての。決してないがしろにしているつもりはないゆえ、利久殿にもよろしく伝えておくれ」


 思いもしなかった気遣いの言葉に、美玲の緊張が少しほぐれた。彼女は、気の強そうなつり上がった目を和ませ、深芳に対し人懐こい笑顔を見せた。


「なんの問題もございません。父も私も、全て承知の上でございます」

「そう言ってもらえると助かる」

「本当です。奥院に上がる機会をいただき、毎日楽しく過ごしております」


 美玲がはきはきと答えると、深芳がふわりと笑った。


「利発な娘は大好きじゃ。ころころと、可愛いの」

「……あ、ありがとうございます」

「何か紫月に言いにくいことがあれば、遠慮なく私に言っておくれ」


 里一の美女に「大好き」と言われ、美玲は思わず恐縮する。

 そんな美玲の様子を深芳はおかしそうに見つめながら、彼女は部屋の外へと視線を向ける。


「さて、」


 娘は大丈夫だろうか。深芳は小さなため息を一つついた。

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