6.天地《あまつち》の御詞

 皆が酒を酌み交わし談笑が起こる中、舞台では次々と歌や舞い、寸劇などが披露された。

 舞台に立つのは主に家元の子息や姫君、家臣たち。こうした場で、なんとか自分達の存在を伯家に印象づけようと誰もが必死である。


 紫月は、舞台で繰り広げられる芸能の数々を楽しみながら独りふうっと息をつく。感覚を強く閉じてはいるものの、これだけ大勢の者たちが集う場所では、どうしても心の中にいろいろな気が流れ込んでくる。


 例えば、階下に見える南庭の一角で笑いながら話をしている文官風の二つ鬼たち。何を話しているのか知らないが、その笑顔とは裏腹に薄暗い感情が全身からだだ漏れである。

 そして近くで言えば、自分と反対側に座っている旺知あきともの夫人たちもしかり。ほぼ部外者である深芳が千紫の隣を陣取って、あろうことか旺知の相手をしているからだ。


 深芳にとっては千紫と話すついでにやむなく相手をしているだけかもしれないが、側妻そばめたちにはそうは見えないようである。平然とした顔つきを保ちつつも、針のような鋭い怒りがチクチクと肌に刺さってくる。


 母親はよくも平気な顔で座っていられるなと、紫月は彼女の図太さに感心せずにはいられなかった。そして紫月は、二回目のため息を吐き出した。

 すると、紫月の様子に気づいた碧霧と美玲が同時に声をかけた。


「どうした紫月?」

「大丈夫?」


 二人は妙なところで息が合う。思わず紫月は吹き出した。

 少し妬いてしまうが、そこは顔に出さない。


「大丈夫、ちょっと大勢の気に酔っただけ」


 舞台では、六洞りくどう家の兄妹が剣舞を披露している。二人は真剣を鋭く振るい、大胆かつ優雅に舞を演じている。舞台での披露は、これで最後である。残すは、紫月の月詞つきことの披露のみだ。

 美玲がもどかしそうに碧霧の袖をこっそり引っ張る。


「ちょっと、碧霧さま。紫月を抱いてあげて。顔色が悪いわ」

「言われなくても分かっているよ」


 これまたこっそり、美玲にうるさそうに言い返し、碧霧が紫月を抱き寄せる。刹那、碧霧の気に包まれ、紫月は少しだけ楽になった。

 彼の気はほっこり暖かく大きくて大好きだ。


 ただ、公の場で抱っこしてもらうなんて、さすがに行儀が悪い。


 広間の隅には宴席の陣頭指揮のため小野木が控えている。おそるおそる、紫月がそこに目を向けると、案の定、小野木から「踏ん張って自分で座れ」と目で返された。


「葵、大丈夫。自分で座るわ」

「駄目だ。これだけ大勢の鬼が集まっていたら、いろいろ流れ込んでくるんだろう? この後、月詞を歌うんだぞ」


 言って碧霧は、離れていこうとする紫月をさらに力強く抱き寄せた。そんな彼の優しさに気恥ずかしさを感じつつも、ふと、どこからか険のある感情が突き刺さる。行儀の悪い姫に呆れ返る侍女衆か、それとも私の存在そのものが気に入らない誰かか。


 本当に嫌になる。ここは大好きな千紫や碧霧たちがいる場所なのに。


 折しも、南庭からわっと喝采が起こる。左近と右近が踊り終えたのだ。

 二人が舞台から下がるのを見届けてから、旺知が集まった鬼たちに向かって鷹揚な声を上げた。


「皆、大義であった。どの演目も楽しめた」


 そして、ちらりと碧霧と紫月を一瞥し、彼は言葉を続けた。


「最後に、皆に披露したいものがある。……三百年前に失われた歌だ」


 しんっと静まり返った後、会場がざわざわとさざ波を打った。年配の鬼は戸惑いを見せ、若手の鬼は怪訝そうな顔をしている。

 そんな鬼たちの様子を面白そうに眺めながら、旺知は「娘、」と紫月を呼ぶ。


 紫月は無言で碧霧と目配せを交わし、彼の腕から抜け出ると、すっと立ち上がった。

 皆の注目が自分に集まったのが分かる。彼女は緊張で震える胸を押さえつつ影霊殿えいりょうでんの階段手前まで静かに歩み出た。

 そこでくるりと上座に向き直り、紫月は一旦座って旺知に対して深く頭を下げる。

 旺知が満足げな笑みを浮かべて彼女に下知した。


「月詞を歌ってみせろ」

「……はい」


 小さく頷き、紫月は再び立ち上がった。もう緊張はない。

 鬼伯に背を向け、空を見上げる。今夜は満月で、月の光が惜しみなく地上に降り注いでいた。

 歌うのは確かに旺知の命令であるが、ここにこうして立つのは間違いなく自分の意思である。

 静かに目を閉じて呼吸を整える。静寂が彼女を包む。

 そして紫月は、一気に感覚を解放した。南庭に集まる数多あまたの鬼の感情を振り払い、もっと大きな気を探る。


 草花が囁き、木々が揺れ、風が舞い、そして地に落ちる。

 これは、つちの言葉。そして、風の声。


 紫月の澄んだ歌声がそよ風のように優しく響き始めた。

 独特の抑揚を持った旋律に、溶けるような柔らかな声が乗る──。それは、歌と言うには美しすぎ、言葉と言うには霞のように掴みどころがない。


「なんと……」


 その歌が何であるか分かる者は、誰もがまさかと息を飲んだ。三百年前、旺知によってほふられた歌。二度と聞くことはないと忘れてしまった幻の調べ。

 

 徐々に姫君の声量が上がる。その澄みきった歌声は、呆然と驚く群衆を置き去って、ひたすら伸びやかに響き渡り、遥か夜空へと溶けていく。


 ふと、月の光が応えた気がした。

 大きな力が体の中に流れ込んでくるのが分かる。まるで愛しい人に抱かれている時のよう。


 今ならきっと、あの月の光に手が届く──。


 紫月は両手を天に向かって高く掲げた。

 さあ、ここに集う全てのものの声をあなたへ届けよう。

 天と地を繋ぎ、生きとし生けるものに捧げる讃頌さんしょうの歌を。


 刹那、地面から淡い光がいくつも浮かび、それが風に乗って舞い上がった。

 言葉にならない声が、そこかしこで湧き起こり、彼女の歌声に空気が震え呼応する。


「これは──」


 思わず碧霧は立て膝になり腰を浮かせた。これは、歌じゃない。

 沈海平しずみだいらの遠征で、風を掌握した時と似ている。いや、それ以上だ。


「紫月っ、そこまでだ!」


 思わず碧霧は紫月に呼びかけた。

 しかし、彼女の歌は止まらない。

 それどころか、言葉にならない天地の声が幾重にも共鳴し、歌声とともに影霊殿を覆う。そして、降り注ぐ月の光が彼女を包んだ。


 駄目だ。心が持っていかれてしまう──!


 とっさに立ち上がり、碧霧が紫月に駆け寄った刹那、ぐらりと彼女の体が傾いた。


「紫月!!」


 寸でのところで、碧霧はその場に崩れ落ちる紫月の体を受け止めた。

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