3.権勢を誇る姫

 藤花に出迎えられ、碧霧は挨拶代わりの笑みを返す。門を通り抜ける時、薄い膜をすり抜けるような感覚がある。「猿師」と呼ばれる、妖猿百日紅さるすべり兵衛が端屋敷はやしきを守るために結んだ結界である。


 碧霧がここを訪れるのは、すでに何度目か。

 初めて紫月に連れて来られたのは、あの大喧嘩の後。宵臥として紫月を奥院に呼び出せなくなった碧霧が「二人きりになれるところがない」とぼやいたところ、「いいところがある」と彼女がここに連れて来てくれた。


 そして碧霧は、いきなり藤花を紹介された。

 初めて会った元伯家の末姫は、自分達の母親より年下であるはずなのに、むしろ彼女たちより年上に見えた。

 その容貌の差は、おそらく大妖狐九尾からの影響だと、紫月がこっそり教えてくれた。それだけ体に負担を強いているのだと。

 何より、彼女は三百年ここ端屋敷に幽閉され続け一歩も外に出たことがない。どれだけ抑圧された生活を強いられてきたかは想像に難くない。

 しかし彼女は、そんなことを微塵も感じさせないほど明るく自由で可愛らしい女性だった。里中で出回っている彼女に対する侮蔑的な噂も嘘であることがすぐに分かった。




 今日は陽射しも暖かく気持ちがいいので、縁側でお茶を振る舞われた。ちょど六洞重丸の妻であり、左右の守役の母親でもある初音が来ていて、彼女が用意をしてくれた。

 初音はもともと藤花付きの奥侍女だった。月夜の変後に重丸と初音は出会い、周囲の反対を押しきる形で重丸が妻にめとったと聞いた。そんな彼女は、めったに公の場には出てこず、今でも藤花の世話をしに端屋敷にやって来ている。


 しばらく藤花をまじえて紫月と三人で他愛もない話をして過ごし、飲み終わった湯呑ゆのみを紫月が下げる。可愛い姪の後ろ姿を見送りながら、藤花が「碧霧さま、」と話しかけた。


「紫月はいい娘でしょう?」

「はい。俺には、もったいないくらい」

「ようく手を離さず、しっかり繋いでおいてくださいませ」


 藤花が含みのある笑みを浮かべる。

 言われなくてもそのつもり──。なのに、あらためて何を言いたいのだろう?

 碧霧が曖昧な笑みを返すと、藤花がふと空に浮かぶ雲を眺めた。 


「紫月はとかく同調しやすい。すぐに心が持っていかれてしまいます。強く繋ぎ止めておかないと、あの雲のようにどこかへ消えていってしまいそうで」

「それは……分かります。なんとなく」


 紫月は周囲との感情の境が曖昧だ。

 これは、彼女と数か月一緒に過ごすうちに碧霧自身が感じたことだ。ふとした拍子に心ここにあらずということもしばしばで、その度に碧霧は彼女の意識を自分の元へと呼び戻す。


 と、片付けを済ませた紫月が戻ってきた。彼女は「何を話していたの?」と笑いながら縁側に座る叔母に言った。


「叔母さま、離れの部屋を使っていい?」

「もちろん。時間もなかろう。二人でゆっくり過ごしてきやれ」


 藤花が心得ている様子でにこりと笑う。

 わざわざ端屋敷に二人で来る理由わけ──、碧霧と紫月は恋人としての甘い時間をここで過ごしている。

 「宵臥として相手はしない」という宣言通り、紫月は落山の姫の務め(というほどの仕事もないが)以外で奥院に上がらなくなった。ただ、「相手はしない」というのは恋人としては話は別で、端屋敷は二人の逢引の場所のようになっていた。


「葵、行こう」


 紫月が碧霧の手を引く。少しきまりの悪さを家主の藤花に感じながらも、色づいた指先が絡まると碧霧の気持ちも自然と高揚する。

 こんな真っ昼間から余所よその邸宅で、という良識的な心の声は、この時ばかりは聞こえないことにした。




 同じ頃、執院の東二ノ間ひがしのにのまでは千紫が机に座り、から届いた手紙に目を通していた。内容を一通り確認してから、彼女はふうっとため息をつく。

 すると、「失礼いたします」と廊下の端で声がして、雪乃がお茶を持って入ってきた。


「春の宴を三日後に控えているというのに、何か心配事でも? ため息が廊下まで聞こえてきましたよ」


 気遣うように笑いながら雪乃は茶托をそっと千紫の傍らに置く。千紫がそれに苦笑いで応えた。


「加野からの文じゃ」

「ああ、碧霧さまが沈海平しずみだいらから連れて帰ってきた娘ですね。次洞じとう佐之助さまの預かりになっているという……」

「うむ、思った以上に働いてくれる」


 千紫の手の平から鬼火が燃え上がり、手紙が炎に包まれる。そして、あっという間にそれは灰となった。

 文に記されていたのは、次洞家を訪れた者の名前とその回数だ。

 あれこれ嗅ぎ回るのは危険を伴うため、日常生活の範囲で確認できる来訪者を記して欲しいと頼んだ。たったこれだけの情報ではあるが、それでもいろいろと見えてくる。


 最初の頃は名前も少なく、情報自体も断片的だった。しかし、今ではどこの誰であるかという注釈が入ってくることもある。思った以上に目と耳がきく聡い娘のようである。


(今は小梶平八郎の養女という不遇の扱いとは言え、そもそも直孝さまの娘。このまま小間使いのような真似をさせておくのはもったいないの)


 加野が直孝の実の娘であることは伏せられている。このまま、なんとか次洞家と縁を切ることができないものかと千紫は思案する。

 その時、廊下の向こうがざわついて、吏鬼りきの慌てる声がした。


「美玲さま、奥の方は執務中であらせられます。突然やって来られても困ると何度も申しているではないですか」

「あら、私は紫月さまの教育係ですもの。火急の用件ですので、さっさと取り次いでくださいませ」


 ここ数か月の間ですっかり茶飯事化した美玲と吏鬼とのやりとりである。

 千紫が雪乃に目配せすると、雪乃が心得た様子で部屋を出ていく。しばらくして、得意気な顔の美玲を伴い雪乃が戻ってきた。


 美玲が入口で恭しく頭を下げる。彼女は今や落山の姫より伯子や千紫に対し影響力があるとさえ言われるようになっていた。

 千紫は美玲にソファーへ座るよう促す。美玲が落ち着いた様子で桑染め色のソファーに腰をかけた。

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