8.仲直りの条件
今日も碧霧は執院の中ノ間で黙々と仕事をしていた。奥院の廊下で紫月に相手にされず別れてから、すでに何日も経っている。結局、あの日はあのまま会えずじまい──と言うより、紫月が勝手に帰ってしまっていた。
さすがにここまで取りつく島がないと、碧霧も打つ手なしだ。
そして今朝、碧霧は意を決して落山に「宵臥呼び出し」の式神を送った。今までのご機嫌伺いとは違う、れっきとした「夜の相手をしに来い」という命令だ。
式神を握り潰す紫月の姿が容易に想像できる。案の定、送った式神は返ってこず、音信不通になってしまった。しかし、めげずに迎えの車を落山に向かわせる。
落ち着かない気持ちで仕事をしていると、夕方になって小野木が珍しく中ノ間に現れた。
「紫月さま、先ほど到着いたしました」
「紫月が?」
「はい。ただ今、紅梅の間で早めの
わざわざ宵臥の到着を執院にまで告げに来るなんて珍しい。小野木にしても、それぐらい紫月が碧霧の呼び出しに応じたことが大ごとなのだ。
とにもかくにも、ようやく会って話ができる。
碧霧は仕事を早々に切り上げて、日没とともに奥院へと戻った。
紅梅の間へ着くと、部屋は暖を取るために閉めきられていた。障子戸の薄い和紙から柔らかな光が漏れている。
「紫月、入るよ」
部屋の中に向かって声をかけ、碧霧は戸を開ける。すると、そこに
すでに布団が敷かれた右奥の部屋、そこに背を向けるようにして紫月は背筋を伸ばしきちんと座っている。伏し目がちな横顔は怒っている──いや、もう呆れているのかも、と碧霧は思う。
それでも突っ立っている訳にはいかないので、遠慮がちに碧霧が歩み寄ると、紫月はくるりと彼に向き直った。
「おかえりなさい。仕事はもういいの?」
「紫月が来てくれたと聞いて、早めに切り上げてきた。ちゃんと話をしたくて」
言って碧霧は、右奥の部屋の襖を閉め、敷かれた布団を視界から消した。碧霧にしても、今日はそのために呼び出した訳ではない。
それから彼は、紫月と膝を突き合わせる形で座った。
「先日、七洞の姫と会って嫌な思いはしなかった? 俺もいきなり手を握られて驚いた」
「ああ、あれは私たちをからかっただけで大丈夫よ。話してみたら、芯があって、とてもいい子だったわ。奥院で初めて仲良くなったのが
「そう、なんだ」
男と遊び慣れているなと感じたことは覚えている。が、かの姫に対してそれ以上の印象はほぼ残っていない。紫月がもっと怒っているだろうと想像していた碧霧は、拍子抜けして彼女にただ頷き返した。
同時に、これ以上こちらから話すことが何もないことに気づく。下手な言い訳は事態をさらに悪くするだけだ。それで碧霧が声を発せず言いよどんでいると、紫月がため息混じりに口を開いた。
「別にもう怒ってないわ。私の知らない過去のことで、怒りようもないって言うか……」
「不誠実……だったと思う。曲げようもない事実だし、言い訳もできない。だけど、本当に俺のわがままだけど、紫月と一緒にいたい」
紫月はすぐには答えない。その黙り込んだ顔からは彼女の感情は読み取れない。
重苦しい沈黙がしばらく続いた後、紫月が意を決したように言った。
「お願いが二つある。これで私も収める」
顔を上げて彼女は真っ直ぐ碧霧を見つめた。まるで挑むような紫月の眼差しが碧霧を射抜く。碧霧は息を飲んで頷き返しつつ彼女に先を促した。
「まず一つ、
「ちょっ、ちょっと待って、紫月」
思わず碧霧は紫月を止めた。
一つ目のお願いは分かる。宵臥という悪習に対する拒絶だ。
しかし二つ目は──、
「父上の前で歌うって、紫月はそれでいいのか」
以前、彼女は旺知の前で「
しかし、紫月の目は揺るがない。それでころか、彼女は力強い笑みを見せた。
「そうよ。誰のものでもない月詞を伯家のために歌う。でも、その対価として、伯子の側に侍る姫という立場をもらうわ」
「そんなこと──急にどうして、」
権力に執着がある訳でもない。伯子の妻という座に興味がある訳でもない。
碧霧が戸惑いぎみに尋ねると、紫月は複雑な表情を見せた。
「本当は、その横っ面を引っ叩いて落山に一生こもってやろうかと思った。でも、それはしないわ。なぜだか分かる?」
「……なぜ?」
「何も変わらないからよ」
紫月は、深紫の瞳を力強く瞬かせ、碧霧に向かってはっきりと答えた。
「どの姫も私のように宵臥を逃げ出したり、呼び出しを拒んだり、怒りをぶつけたりすることはできない。私が葵を引っ叩いても私の気がすむだけで、ちっとも何も変わらないの。私は、私だけじゃなく、誰も物のように扱われて欲しくない。そのために、まずは宵臥の姫が、宵のお務めなしで伯子の隣に立ってみせる」
揺るがない意志がにじんだ強い眼差し。
誰もが諦めながら古い因習に従う奥院で、彼女は「それはおかしい」と言ってはばからない。奥院という場所でさえ彼女は大人しくしているつもりはないらしい。
彼女が是非を問うような目を碧霧に向ける。こちらの本気を試す無言の圧が半端ない。
碧霧は降参とばかりに両手を上げた。
「分かったよ、なんとかする」
「ありがとう」
ようやく紫月がほっと顔をほころばせた。そして彼女は、「それにね、」と付け加える。
「私、ここでも自由に歌いたいの。鬼伯と対立していたら、それができない。でも、皆の前で歌ってしまえば人目をはばかる必要もないでしょう?」
我ながら妙案だとばかりに紫月が得意げな顔をした。その様子がおかしくて、碧霧は思わず吹き出した。
「そんなこと考えていたのか」
「そうよ、だから目的達成までは葵の隣に居座ることにした」
「怖いな」
どちらからともなく笑いが漏れた。碧霧が遠慮がちに手を握れば、紫月が指を絡め返してきた。碧霧はにじり寄って彼女を力強く抱き締める。
「ごめん。本当に許してくれないかと思った」
「もういい。これで収めるって言ったでしょ」
「うん」
穏やかな彼女の声を聞くのは久しぶりだ。
碧霧は心の中で大きく息をついた。本当ならこのまま夜を一緒に過ごしたい。しかし、「宵臥のお務めはしない」という紫月の言葉を尊重し、ぐっと堪える。
代わりに彼は、紫月のあごをさらうとその唇に深く口づけた。紫月がほんの一瞬戸惑う素振りを見せたが、そこは強引に自身の気持ちも一緒に押しつけた。
久しぶりの甘い感触。それを十分に味わって紫月を解放すると、彼女は困り顔で苦笑した。
「もう、ちゃんと反省してる?」
「してる。こんなことは二度となしだ」
当然とばかりに碧霧は答えた。そして彼は愛しい姫君を最後にもう一度抱き締めた。
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