7.恋愛なんてまっぴらごめん
美玲が、かの伯子と関係を持ったのは春頃か。
彼女は小さい頃から洞家の姫君として躾られ、ゆくゆくは良家へ、あばよくは伯家へ嫁ぐことを期待され育てられた。
母親の佐和は家柄だけで相手を評価する家元の娘で、父親とは家柄だけで結婚した。だから、御用方という御座所でも雑用係のような役職にいる父親をいつだって馬鹿にしている。
母親の頭にあるのは七洞家をさらに立派にしようということだけ。そのために、勢いのある立派な家に嫁ぐことが美玲の使命だった。
母親は、たぶん父親ではなく七洞家と結婚したのだ。
伯子の女遊びが派手なことは、ずいぶんと前から噂好きの侍女たちから耳に入っていた。女なら誰でもいいのかと
訳も分からず嫁がされ、夫を罵り家財を食い潰すような女には絶対になりたくないと彼女は思っていた。
その内、伯子は歌が上手な姫がお好みだと聞きつけた母親にむりやり歌を習わされるようになり、挙げ句、「七洞の姫は歌が上手い」などと噂をされるようになった。実はこの噂も佐和が奥侍女に金を握らせて撒かせたものだ。
しばらくして伯子から歌を聞いてみたいという誘いの知らせが届いた。
初めて会う伯子は、噂以上の美男子で心がときめかなかったと言えば嘘になる。しかし、その瞳には何も映していなかった。
なんだ、と美玲はがっかりした。
この男も母親と同じ。私を家柄でしか見ていない。そしてそれは自分も同じ。この場に出て来た時点で、自分も彼を「伯子」としか見ていない。所詮は同じ穴のムジナだ。
結局、一番なりたくない女になりかけていることに美玲は気がついた。
すっかり興ざめし、その場の流れで適当に歌を披露した。案の定、途中であくびを噛み締められ、彼女は思わず失笑しそうになった。
後は、もうお決まりのように寝ただけだ。そうしないとお互いにきまりが悪かったから。なぜなら、彼も自分もそのために会ったようなものなのだ。自分が収まっている器を見せ合い体の相性を確認する──。本当に、ただそれだけだ。歌なんて、必要なかった。
機械的に抱かれることの、なんとお粗末なことか。伯子碧霧との関係は、ちょっと楽しんだというだけで、まったく燃えないものだった。
美玲は、当たり障りのないよう言葉を選びながらざっくりと自分のいきさつを紫月に話して聞かせた。そして最後に締めくくる。
「要は、碧霧さまは誰も見ていらっしゃらなかったのよ。そして、私を含め、周りの姫君も同じ。碧霧さまを見てはいない。だから、関係があったとしてもその程度、ないのと同じね」
「……好きでもないのに?」
遠慮がちに紫月が美玲に問う。非難しているというより、同情しているような顔だ。
美玲は皮肉げな笑みを小さく浮かべて言った。
「そうよ。家のために体を差し出すの。伯子に平手打ちをかまして宵臥から逃げ出すなんて、誰にでもできることじゃないのよ。奥の方さまも、もともと宵臥だったと聞いたわ。落山の方さまだって──、無理やりでしょ。あの二人でさえ、そうなのよ。そこら辺の姫が抗うことができると思う?」
自分の焼きもちから始まった今回の騒動。でも、そんなことさえ許されない鬼姫たちがたくさんいる。
紫月の心に絡みついていたわだかまりが静かに落ちていく。
正直なところ、全てが吹っ切れた訳ではない。しかし、それは自分と碧霧のこれからの話だと紫月は思う。
このまま立ち止まってはいけない──。紫月は七洞の姫君を真っ直ぐ見つめた。
「私のことは、ただの紫月でいい。美玲、これからも話を聞きたい。面倒かもしれないけれど、私の教育係を引き受けてくれる?」
美玲が少し驚いた顔をする。しかしすぐ、彼女は楽しそうに笑った。
「やっぱり、あなたは面白いわ。迷惑この上ないけど、しょうがないわね。いいわよ、受けてあげる」
「ありがとう」
ちょうどその時、がちゃがちゃと物が揺れる音がした。すると、はしごを担ぎ大きな剪定ばさみを抱えた二つ鬼の男が慌てた様子で庭先に現れた。
のんびりした顔は優しい性格を、冬だと言うのに額に汗を浮かべている様子は一生懸命さを感じさせた。
美玲がぱっと顔を輝かせ、立ち上がった。
「お父さま、お待ちしておりました」
言って彼女は廊下に歩み出て利久を出迎えた。利久が、すぐに部屋の奥の紫月の姿を認め、その場に道具を置き膝をついて低頭する。
「お初にお目にかかります。御用方、七洞利久にございます。この度は娘の美玲が大役を仰せつかり、ありがたく存じます」
「七洞さま、やめて。そんなに畏まらないでって美玲にもお願いしたところなの。だから七洞さまも楽にして」
慌てて紫月が止めると、利久はほっと顔を和ませた。
「美玲はお役に立ちそうでしょうか」
「もちろんよ。さっそくいろいろ教えてもらったわ。これらからもよろしくってお願いしたところなの」
笑って答えながら紫月も廊下に出た。そして美玲と並んで梅の木を仰ぎ見る。
「それにしても、二人とも見ただけで分かるの? 私には何が駄目なのか、ちっとも分からないわ」
「ははは、そうでございましょうとも。今、
笑いながら利久は懐からたすきを取りだした。それを斜めに掛けて袖をまくし上げると、手慣れた様子ではしごを掛けて木に登る。その様は、紫月が思い描いている洞家当主とはほど遠い。
美玲が得意気な顔で父親の姿を眺めながら呟いた。
「私はね、お母さまのようにはならないって決めているの。この御座所で一番の働き者であるお父さまのように、きちんと働いて自立した女性になるの。恋や愛──、ましてや結婚なんてまっぴらごめんだわ」
その力強い宣言に、紫月は気持ちが晴れやかになる。
男社会に虐げられている女たち。しかし、不思議と自分の周りには、したたかで強い女ばかりが集まってくる。なんて心強いことだろう。
澄みきった冬空の下、ぱちん、ぱちんと枝を切る音が庭に響いた。その軽快な音に反応し、寒さで縮こまっていた庭の木々たちがざわめき始める。
そう言えば、月夜の里に戻ってから長らく何も歌っていない。風の声にも草木の囁きにも耳を傾ける余裕がなかった。こんなことで、誰に勝とうと言うのだろう。
木々のざわめきに耳を傾け、ぱちんと響く剪定の拍子に合わせ、紫月は軽やかな調べを口ずさむ。見つかったら大事になるから、小さくひっそりだ。それでも、彼女の歌声は力強く伸びやかに広がり、庭を包む空気が変わった。
利久が枝を切る手を止めて、呆然とした顔で紫月を見下ろした。隣の美玲は、何か不思議なものでも見たかのような顔をしている。
紫月は、口元に人さし指を立てて「内緒よ」と笑って呟いた。
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