6.女の事情

 紅梅の間は、奥院の中でも伯家の最も私的な区画にある。ここまで入ることができるのは、限られた者だけだ。

 東舎ひがしやと呼ばれる建物は千紫と碧霧の私室が、西舎にしやは旺知の側妻そばめ数人の部屋があり、旺知自身は北舎きたやに住んでいると小野木が説明してくれた。そして紅梅の間は、東舎ひがしやにある。


「こちらの部屋は、庭先に梅の木が植えられていることから、紅梅の間と呼ばれております」


 よじるように幹をくねらせ広げた枝には、春になると真っ赤な梅が咲き誇る。今は冬、うっすらと雪を被った梅の木は、春の訪れをじっと待っていた。


 母親がかつて住んでいた部屋は、調度品もかつてのままであるらしい。黒塗りの使い込まれた品は決して華美なものではなく、娘が思っていたとおりの質素な部屋だった。

 あの母親は、存在自体が美しすぎて何も必要ないのだ。


 小野木に促され、紫月は部屋に入ると上座に座る。続けてやってきた七洞の姫君は、ふと立ち止まり梅の枝振りに目をやった。


「小野木、お父さまにお伝えして。至急、梅を見て欲しいと」

「はい。梅の木がどうか?」

「ちゃんと剪定されていない。あれでは駄目です」

「では、御用使いの誰かに──」

「いいえ。この梅は、かつて里一の美姫と謳われた落山の方さまのお部屋の梅。万全の状態で花を咲かせなければ、御用方の名折れです。お父さまに直にお伝えして」


 きっぱりと答え、美玲みれが真摯な顔を小野木に向ける。小野木はすっと顔を引き締め頷くと足早にその場を辞した。


「失礼いたしました。紫月さま」


 小野木を見送った後、美玲は部屋に入ると紫月に向かい合う形で下座に座った。そして両手をついてたおやかに頭を下げる。


「七洞利久が娘、美玲にございます」


 言って彼女は気の強そうな大きくつり上がった瞳を人懐こく和ませた。

 紫月は戸惑いながら頷いた。

 正直なところ、先手を打たれた感は否めない。明らかに動揺しているのはこちらで、相手は余裕たっぷりに見える。


 それでも、彼女には負けたくはない。どうすればいいだろうと、紫月は考えを巡らせる。

 居丈高に振る舞う? 完璧な所作で応対する?

 どちらも違う気がするし、さらに言うなら、そんなことで勝てそうにない。いや、勝とうなんて思っている時点で、すでに自分の負けである。


 なんだかこんなことでグタグタと。自分らしくないな。


 紫月は大きく深呼吸して胸の中の緊張やモヤモヤを一気に吐き出す。少し気持ちが整ったところで、彼女はふっきれた口調で言った。


「千紫さまからは、その、いろいろ聞いたわ。あなたは?」

「はい。紫月さまのために慢心することなく務めよと言われました。分からないことがあれば、なんなりとお聞きくださいませ」

「そんなに畏まらないで。堅苦しいの苦手なの。せめて二人の時は、もっと楽に話をしたいわ」


 紫月が手を振って止めた。やりとりがまどろっこしい。

 すると、美玲がことりと首を傾げる。


「それは、好きなように話してよろしいということで?」

「そうよ。言いたいことがあるなら、この際ぶっちゃけていいわよ。千紫さまに言うつもりもないから。まどろっこいのは好きじゃないの」


 その途端、


「……やっぱり、面白い姫ね」


 美玲の態度ががらりと変わる。そして彼女はあれこれ思案してから、「では、お言葉に甘えて」と不敵な笑みを浮かべた。


「ぶっちゃけ言わせてもらうと、迷惑この上ないのよ。今回のことは、お父さまが七洞を返上なさるなんて言うからしぶしぶお受けしただけ」

「──し、しぶしぶ?」

「そうよ。まさか、『伯子は渡さない』とか宣戦布告するとでも思った?」

「や、でもだって、さっき葵にベタベタと触ってたわよね?!」


 思わず紫月は突っ込む。美玲が「やだ」と鼻で笑った。


「あんなの、演技に決まっているでしょ。宵臥の姫と伯子を取り合う洞家の姫って構図が奥院の皆さまにもウケそうだし? 伯子の慌てた顔とあなたの動揺しまくる顔が面白いったら。くだらない痴話喧嘩に私を巻き込んだ罰よ。あ、そうだ。最初に言っておくけれど──」


 美玲が一呼吸おいて優美に目を細めた。


「伯子の下半身には興味も未練もないから。そこは心配しないで」

「か、下半身って──っ」


 この女、ぶちまけ過ぎだ。

 碧霧はどんな女を摘まんだのだと思う一方、やっぱり体の関係はあったのかと腹の中が煮えくり返る。

 紫月は口をぱくぱくさせながら、声をなんとか絞り出した。


「誰もそこまでして教育係になって欲しいなんて言ってない。私から千紫さまに話をするから辞めればいいわ。そしたら七洞を返上せずにすむでしょ」

「可愛いくらい世間知らずね」


 美玲がくすりと笑う。そして、「いい?」と紫月に言い聞かせる口調で言った。


「あなたが奥院で大暴れしたおかげで、誰もあなたが不動の本命だとは思っていない。隙あらば、あなたを蹴落として自分の娘を差し出そうと虎視眈々こしたんたんと狙っているわ。もし私がいなくなったら、本当の対抗馬がやってくるわよ。それでもいいの?」

「う──。それは、」


 ちょっと、かなり嫌だ。

 あからさまに嫌な顔を返した紫月を確認して美玲は満足げに頷く。


「だったら私を教育係につけておきなさい。私にだって利はあるのよ。あなたの教育係という名目とはいえ、伯子のお側近くに侍ることができるのだから、七洞家としてはありがたいお話よ。それに、私も奥院で経験を積めるし、六洞の姫や小野木のように自立した女性になれるわ」

「自立した女性……」

「誰も、あなたほど恵まれてはいないのよ。良家に嫁ぐことを第一の使命と課せられ、そのためだけに女を磨く。男に女と認められなければ女じゃないの。分かる?」


 美玲が吐き捨てるように言った。「男に女と認められなければ女じゃない」なんて、まるで「自分」というものは存在しないと言っているのと同じだ。

 だから美玲は「自立した女性」になりたいと言う。その言葉の裏にあるのは、女をただただ品物として扱っている男社会への嫌悪だ。


「……美玲。葵とは、その、どんな関係だったの?」


 思わず口をついて出た。

 美玲が苦笑する。


「やだ、無粋ね。普通、そういうの聞かないわよ」

「そうだと思うけど、私、出会う前の葵のことを何も知らないの。確かにちょっと強引なところはあるけど、優しいし、私の話もちゃんと聞いてくれるし……」


 少なくとも、物扱いされたことはない。

 だから知らない。そんな殺伐とした男女の関係も、そこに身を置く彼の姿も。


「大切にされているのね。羨ましいわ」


 戸惑う紫月の姿を見て、美玲がふわりと笑った。

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