5.七洞の姫

 なんとか声を絞り出し、深芳に対して謝罪の言葉を述べて、碧霧は落山を後にした。もしかしたら紫月は屋敷の中にいて出てこなかっただけかもしれないと、帰りの道すがら碧霧は思う。

 これは毎日でも通いつめないと会わせてもらえないかもしれない。しかし、その度にあの美しい母親からどんなお茶を出されるのかと想像すると碧霧はぶるりと身震いした。そもそも今日飲んだお茶の効能は本当だろうかと不安になる。


 御座所おわすところに戻ってきて、息つく暇もなくそのまま自身の執務室である中ノ間へと向かう。これから勘定方の下野しもつけ与平と沈海平からの収入について話し合う予定だ。

 正直、頭は動いていない。しかし、仕事をしていた方が気が紛れるので働いている。ただそれだけだ。


 と、その時、廊下の向こうから右近が気忙しくやって来た。


「碧霧さま、やっと帰って来た」

「どうした、何かあったか?」

「紫月さまが──」


 言って彼女はあらぬ方向を指差す。


「奥院です」

「は?」

「紫月さまが、千紫さまの呼び出しに応じて奥院にいらっしゃってます」

「なんだって?」


 刹那、碧霧の足が一気に奥院へと向かう。


「右近、与平には悪いが待っていてくれと言ってくれっ」


 碧霧は立ち止まることもなく首だけ回して伝言を右近に投げつけた。




 紫月は再び小野木に案内されて、奥院の長い廊下を進んでいた。今から七洞の姫君と会う。千紫とはさっきの部屋で別れた。同席すると言った彼女を紫月自ら断ったのだ。


 これ以上の千紫の肩入れはあまりに公平ではない。あちらも言いたいことがあるかもしれないのに、千紫がいたらきっと何も話せない。

 千紫の話を受け入れた以上、ここからは自分の問題である。自分一人でかの姫と話をしなければならないと紫月は思った。


 小野木が歩きながらそっと紫月に話しかける。


「今からご案内するのは、紅梅の間でございます」

「紅梅の間?」

「はい。元は落山の方さまのお部屋でございます。千紫さまは、落山の方さまと末姫藤花さまのお部屋だけは誰にも使わせず大切になさっておいでです」

「……」


 奥院に住んでいるのは千紫や葵だけではない。鬼伯旺知あきともには側妻そばめが何人もいて、そんな女性が複数住んでいる。

 それを誰にも使わせていないなんて、母親や叔母を今なお思う千紫の気持ちがとてもありがたかった。


「それで、今日はその部屋を使っていいの?」

「はい。今後、奥院での紫月さまのお部屋は紅梅の間となります」

「七洞の姫は先に待ってるの?」

「いいえ。主である紫月さまがいない部屋に勝手にお通しできませんので、七洞の姫君には小間にてお待ちいただいております」


 珍しく小野木がにこりと笑う。

 奥院の、かつて母親が使っていた部屋。

 その部屋を使うことが、とても特別なことなのだと十分に伝わる。そして、この「特別扱い」が奥院では大きな意味を持つ。

 紫月は深呼吸を一つした。


 その時、


「紫月!」


 廊下の向こう、久しぶりの声が紫月を呼び止めた。思わず声をする方へ顔を向けると、そこに会いたくないけど会いたい二つ鬼の姿があった。


「葵、」


 茅色の小袖に藍色の袴姿が相変わらず凛々しい。

 紫月の心がぐらぐらと揺れる。こっちが緊張で震えているこの時に出てくるなんて、ちょっとずるい。思わず抱きつきたくなってしまう。

 困惑の色を浮かべる紫月に対し、碧霧はまるで失くし物を見つけたような顔をして、迷わずこちらに向かってきた。


「やっと会えた。紫月、話がしたい」

「無理よ。今から七洞の姫に会うの。話は千紫さまから聞いたわ」


 すかさず紫月が答えると、碧霧が鼻白んだ。


「七洞の姫に? 何を勝手に──。会う必要なんかない。母上に言われて断れないのなら、俺から母上に話す」

「違う。全部ちゃんと聞いて、私がお話をお受けしたのよ。葵には関係ない」


 紫月は「関係ない」とあえて強調した。これはもう、ハレたホレたの低俗な話ではない。奥院のもっと政治的な──、そういう話だと自分に必死に言い聞かせているのだから。


「小野木、案内して。七洞の姫をあまり待たせたくないわ」

「紫月っ、待てって!」


 伸ばされた碧霧の手、しかし、その手をまったく違う誰かが取り上げる。

 ふわりと木蓮の香りが漂い、真っ赤な南天柄に薄黄蘗うすきはだ色の打掛がぱさりと翻った。

 紫月との間に割って入り、二つ鬼の姫君が碧霧に優美な笑みを向けた。


「お久しぶりです、碧霧さま。沈海平しずみだいらでは並々ならぬご活躍、お疲れさまでした」


 碧霧がぎくりとした顔をする。紫月の目が大きく見開く。


 その子は誰、と彼に問うまでもない。


 会ったこともない相手であるが、それが誰であるか紫月には一瞬にして分かった。頭がかあっと熱くなる。

 二つ鬼の姫君は、くるりと紫月に向き直るとにこりと笑った。


「紫月さま、お初にお目にかかります」

「……」


 勝ち気な感じのするつり上がった瞳を人懐こく細め、赤みがかった黒髪がさらさらと軽やかに揺れる。もたっと重たい自分の黒髪とは全然違う。


 ふーん、これが七洞の姫。


 なかなかに可愛い。南天柄の打掛も派手すぎず洒落ている。しかも、まだ彼の手を握り続けるという馴れ馴れしさ。教育係と指名された分際でやってくれる。

 思わず紫月は、「その手を離せ」と言いかけて、しかしすぐ、碧霧が不快げに手を振り払ったので、寸でのところでそれを飲み込んだ。


 すると、小野木が紫月の前にずいっと進み出た。


美玲みれさま、小間でお待ちいただくようお願いしていたはずです。立ったまま挨拶をされるなど、あまりに不躾」

「あら、奥院では珍しい言い争う声が聞こえましたもので。不安になって様子を見に来たら碧霧さまの姿が見えたので、ご挨拶を申し上げたまでです」


 言って彼女は悪びれる様子もなく笑い返した。

 小野木が大きなため息をつく。そして、小野木は碧霧に静かに一礼した。


「伯子、廊下での立ち話はいささか不調法にございます。紫月さまとは後ほど時間をお取り下さいませ」

「……分かった」


 碧霧が小野木に諭されしぶしぶ了承した。ふと、こちらに目を向けてきたが、紫月はふいっと目を逸らしてしまった。


「では、紫月さま参りましょう。美玲殿、あなたさまも一緒に」


 きびきびとした声で場を収め、小野木がさっと踵を返す。

 単に行儀が悪かったというだけかもしれないが、結果的には小野木に助けられた。紫月は歩き始める小野木の背中を見つめ、心の中で感謝した。

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