3.落山の姫の昇殿

 御座所の北側、伯礼門という小さな門がある。小さな門ではあるが、奥院へと直接入ることのできるこの門を通れる者は当然ながら限られている。


 その伯礼門から奥院に続く車寄せに車が止まった。緋色の流水に椿の花があしらわれた打掛を翻し、一つ鬼の姫君が車から降り立つ。

 入り口の上がりの廊下で座して待つのは筆頭侍女の小野木。彼女はうやうやしく姫君に向かって頭を下げた。


「落山の姫さま、お待ちしておりました」


 紫月はすました顔で小さく頷く。そして、案内するよう目配せすれば、小野木はすました笑みを浮かべて立ち上がった。


 今日、紫月は千紫の呼び出しに応じて御座所に来た。奥の方の呼び出しを二度も断るなど前例のないことで、三度目の正直ともいうべきだった。

 千紫に対して怒ってる訳ではなかった。しかし、彼女から謝罪されても笑って許せる自信がなく、昇殿を断っていた。


 しかし今は、果たして千紫は謝罪をしたかったのだろうかと紫月は思っている。なぜなら、千紫は自分の教育係に七洞の姫を指名したと小野木が言っていた。自分の怒りを少しでも汲み取っているのであれば、この選出はあり得ない。


 このことを深芳に話すと、母親は可笑しそうに笑って「ならば七洞の姫に会ってきやれ」と言った。

 彼女にとって七洞の姫の件は完全に些事に過ぎず、いちいち動揺する娘をおもしろがっているとしか思えなかった。自分の周りには、どうも交戦好きの変な女しかいないらしい。


 小野木に案内され、長い廊下を歩く。先日の碧霧との大喧嘩はすでに奥院で働く者たちの知るところとなっているようで、あちこちから険のある囁き声が聞こえてくる。

 紫月は固く心を閉じながら、前を歩く小野木に話しかけた。


「先日はありがとう。おかげで少し頭が冷えたわ」

「それはようございました。これから先、呆れることは山ほどございます。この程度で音を上げられては困ります」

「上げないわよ。まあ、この場所に執着があるわけでもないし、追い出されたところで清々するけど」


 紫月が遠慮ない言葉を発すると、小野木がふんっと鼻を鳴らした。

 怒らせたかなと思ったが、どうやら違う。この短期間に二度ほどやりあって、ちょっと小野木という侍女のことが分かってきた。彼女は分かりにくいのだ。


 誰よりも偉そうな母親でさえ小野木のことを認めていた。千紫も全幅の信頼を置いているという。

 何より今、自分がここにいるのは、「この小野木を変えたくば、上に立て」と彼女に言われたからである。嫌っている相手に、あんなことは言わない。少なくとも嫌われてはいないと紫月は思った。


「次からは、伯礼門をお通りくださいませ。大礼門は御座所の正門、日常的に開けることはできませぬ。普段は伯礼門を通るのが慣習となっております。通れるのは、伯家と落山の方、そして紫月さまだけにございます。間違っても他の者をお通しにならないようお気をつけくださいませ」

「分かったわ」


 七洞の姫は通れないのかとちょっと心が軽くなる。同時にそんなことを考える自分自身が嫌になる。この程度のことで自分が優位に立っていると思おうとしている。

 しばらくして小野木が一つの部屋の前で立ち止まり、「紫月さま、お越しにございます」と部屋の中に声をかけた。


「入りやれ」


 落ち着いた艶のある声が響く。小野木に促されて部屋に入ると、そこに笑顔の千紫が座っていた。


「紫月、よう来た。その打掛も似合っておるの」


 千紫が嬉しそうに目尻を下げる。紫月はさっと座ると、両手をついて頭を下げた。


「先日はこのような打掛を賜り、ありがとうございました。また、再三の呼び出しにもかかわらず、参じることができず申し訳ございませんでした。お許しくださいませ」

「そのようにかしこまるな。らしくない。楽にせよ」

「……」


 紫月がちらりと脇に控える小野木に目をやると、小野木が黙って頷き返してきた。どうやら好きにしていいらしい。紫月は、ようやくむすっとした顔を千紫に向けた。


「おやま。怒っておるな、紫月」


 千紫が「すまぬ」と言いながら苦笑する。そして彼女は、上座から紫月の位置までするすると膝を寄せてきた。


「あやつの母として謝罪する。許してくれ」

「千紫さまは……悪くないわ。それに……」

「?」


 千紫が首を傾げて先を促す。紫月はしばらく逡巡してから意を決したように口を開いた。


「今日は謝るために私を呼び出した訳じゃないでしょ?」

「話が早くて助かる。聞いたか?」

「ええ、小野木から」


 紫月が答えると、千紫は満足げに笑い、それから小野木に目配せをした。小野木が一礼し、そのまま部屋から下がる。そして彼女は、静かに障子戸を閉めると、他の侍女衆も引き連れて去っていった。


 誰の気配もしなくなってから千紫が静かに口を開いた。


「七洞の姫をおまえの教育係につける」

「……」


 すでに分かっていたことなのに、千紫の口からあらためて聞かされると胸がぎゅっと締めつけられる。

 納得のいかない気持ちがずくずくと心を支配する。そんな心の内を察したのか、千紫は落ち着いた口調で紫月に話し始めた。


「洞家・家元の間で再び娘を伯子へ献上しようとする動きが出ておる。鬼伯がおまえを認めないと言ったこと、あの日おまえと碧霧が大喧嘩をしたことが主な原因じゃ。政治的な思惑が絡む婚姻は、慎重に進めなければならないし、そもそも碧霧本人がする気がない。当然ながら、私も他の姫をもらうつもりはない。七洞の姫をおまえの教育係にしたのは、そういった動きに対する牽制の意味もある」

「……どうして七洞なの? 洞家は他にもいるわ」

「七洞利久が最も害がなく、七洞の姫が最も碧霧やおまえが嫌がる相手だからじゃ」


 千紫がすっぱりと言い切った。

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