2)波乱の帰還報告
1.赤鬼の見送り
冷たい朝の空をぐんぐんと走り抜け、碧霧たち一行は
眼下に広がる古閑森を前に、碧霧は馬の足を止め、みんなを振り返った。
「できれば月夜まで一気に行きたい。紫月、来た時のように風に乗ることはできる?」
「そうね、今日はうまい具合に北へと向かう風が吹いているから、それに乗れば……」
「お待ちください。加野にはかなりの負担となります」
左近が難色を示した。
彼の前に抱きかかえられるようにして座る加野がきょとんとした顔を傾げた。
「紫月さま、普通の進み方とは違うのでしょうか?」
「違うけど……、むしろ普通の進み方より楽だと思うわ」
「乱高下も激しいですし、最後に急降下なさるでしょう? あれは普通ではありません!」
左近に突っ込まれ、「あ、あれか」と紫月が苦笑する。確かに、あれは右近からも苦情が出た。
そして、風を利用したいと思っている碧霧も、そこについては同意見らしい。
「せめて急降下なしでできる? 確かにあれは加野には無理だ」
「じゃあ、風向きが変わる時に急降下に巻き込まれやすいから、そうなる前に風から離れるわ」
「それがいい。それで頼む。乱高下は……、左近ができるだけ馬を優しく操縦してくれ」
と、その時。
風を切って走る空馬の音が後方から聞こえた。
なんだ、と碧霧たちが振り返ると、そこに黒い空馬に股がった褐色の肌に赤い髪の男がいきなり現れた。
唐紅の小袖に濃紺の羽織を着て、太く豪奢な組紐を何本も腰に巻いていた。背中には大振りの槍を担いでおり、そして頭には弓なりに反った二本の角がある。
「魁──」
右近が顔をすっと強張らせ、一方、紫月は「あら、」と顔をほころばせた。
そして、魁を知らない碧霧と左近は、訝しげな視線を向ける。
「
「ええ、奈原で出会った旅商人です。ゴロツキに絡まれた時に助けてもらったことがあって、」
以来、ちょくちょく会うようになって仲良くなったことや、最後の夜に口利きを頼まれたことは──言わなかった。
すると、右近の言葉を引き継いで魁がにやりと笑った。
「今日、月夜に帰ると聞いてな。お見送りだ」
左近がつと片眉を上げた。そして、問いただすような目で妹を見る。
「右近、そんなことをあの男に話したのか?」
「申し訳ありません」
いつ出発するか、どこを通るかも言わなかったのに。夜明け前からこの広い空で待ち伏せしていたのだろうか。
気まずそうに俯く妹を見ながら兄が小さく嘆息した。そして彼は、あらためて魁に向き直った。
「それは右近が世話になった。先を急ぐので、これにて失礼する」
一方的に会話を終わらせる強い口調だ。
当然だ、どこの誰かも分からない輩と無駄話をするほど伯子は暇ではない。相手が西の紅一族ならなおさらだ。
「さあ碧霧さま、参りましょう──」
「なあ、赤鉄を俺に扱わせてくれねえか?」
出し抜けに魁が声を発した。馬首を翻しかけた左近が不快げに魁を睨んだが、彼の視線はすでに左近を越えて月夜の伯子を捉えている。
碧霧が無言のまま探るような目を返した。
魁が不敵な笑みを浮かべる。
「俺なら、北の領だけではなく、西や東、そして南の領にも売りさばける」
「……興味深い話だが、今ここで返事はできない。考えておく」
次に会う予定もない者に対して考えておくも何もないだろう。遠回し的ではあるが、明らかな断りの言葉だ。
しかし、魁は満足げに笑った。
「早めに頼むぜ。商売も政治も、先手を打った者が有利だ。愚鈍な判断は、足元をすくわれる。あんたがそうじゃないことを期待している」
皮肉を含んだ物言いに、碧霧はやはり表情を変えることなく無言のままだ。しかし、魁にとってはその反応さえも予定内だったのか、悔しそうな様子は一つもない。
そして彼は、含みのある目をほんの一瞬だけ右近に向けて、それから「じゃあ、またな」と挨拶も軽やかに去っていった。
その後ろ姿を見送りつつ、紫月が気遣うような目を右近に向ける。
「右近、何も話さなくて良かったの?」
「……かまいません。どうせ、碧霧さま目当てでこちらに近づいたんですから」
右近は素っ気なく紫月に答えた。事実を自分の口で言葉にすると、胸がしくしくと痛んだ。
その隣で左近が「さあ、行きましょう」と先を促す。そして、右近に釘を刺す。
「右近、分かっていると思うが……」
「分かっている。別に奴とはなんでもない。兄さん、急ごう」
兄の小言が煩わしくて、右近は誰よりも早く馬を進め始めた。左近がその背中に向かって口を開きかけたところを、同乗している加野が「左近さま、」と遠慮がちに止めた。
「右近さまは分別のある方です。くどくどと言う必要はないかと」
やんわりと
紫月は、そんなやり取りを見て、三か月の間に左右の守役にもいろいろあったんだなと、あらためて感じた。
とにもかくにも、今は月夜の里へ──。
「右近、待って。私が先頭じゃなきゃ、風に乗れないでしょ。さあ、帰りましょ」
紫月が狛犬を走らせる。碧霧と左右の守役の空馬がそれに続いた。
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