2.帰還

 風に乗り、碧霧たちはぐんぐんと空を駆る。今回は、わりと低めの位置のゆっくりとした風に乗ることができたので、加野への負担も少なくて済んでいる。それでも、初めて体験する早さであることは変わりなく、彼女は遠慮がちではあるが左近にぎゅっとしがみついていた。

 碧霧や右近は、すでに慣れた様子でしっかりと紫月の後についてきている。さすがに適応力が高い。


 西部特有のごつごつとした緑の少ない岩肌の風景が続く。途中、休憩を一回挟んで二時間ほど進んだところで、紫月がゆっくりと降下し始めた。

 見覚えのある平地が目に入る。沈海平しずみだいらへ向かう途中に寄った小さな沢のある平地だ。


「葵、少し早いけどお昼にしましょ」

「そうだな、分かった」


 痩せ枯れた土地には沢以外に何もない。それでも水があるだけましである。一行は沢辺近くに馬を着地させた。

 碧霧はやれやれと体を伸ばし、右近は天に向かって大きく深呼吸した。風に乗って効率良く進んだとは言え、長時間かなりの速度の馬を操っていたわけだから、皆それなりに疲れていた。

 空馬での強行軍に慣れていない者ならなおさら辛い。左近が馬から加野を降ろすと、彼女は疲れた様子で足をふらつかせた。

 慌てて左近が加野を支える。


「大丈夫か、加野?」

「ありがとうございます。問題ありません」

「大丈夫じゃないわ。ふらふらよ、加野。こっちに座って」


 紫月が手招きをして加野を適当な場所に座らせる。そして紫月は、自らも隣に座ると、ふうっと息をつく加野の顔を覗き込んだ。


「あなたが頑張ってくれたおかげでいっぱい進むことができたわ。ありがとう」

「そんなこと──。私がいなければ、まだ進むことができたでしょうに」


 佐一の姉は、はきはきと物を言う毒舌気味の弟と違い、どこまでも控えめである。顔立ちも大人しく、発言も遠慮がちで、奥ゆかしいとは彼女のような女性のことを言うのだと紫月は思った。


「さあ、妃那古が持たせてくれたおにぎりよ。加野、いっぱい食べて!」


 紫月は誰よりも先におにぎりを加野に差し出した。しかし、加野は紫月の手を優しく取り、そのまま碧霧に差し向ける。


「私は馬に座っているだけでしたので最後で。まだまだ先は遠くございます。まずは碧霧さまと紫月さま、そして左近さまと右近さまが腹を満たしてくださいませ」

「そうかもしれないけど、遠慮しすぎは感心しないわ」


 古風な女性らしい気遣いと言えばそうなのだが、紫月としては「加野は誰よりも下である」と強調されているようで気に入らない。


「立場とか関係なく、今日一番頑張ったのは間違いなく加野だもの。だから食べて!」


 紫月は半ば強引に加野におにぎりを持たせ、右から順に左近、右近、そして碧霧へと配る。加野が少し驚いた様子でまじまじとおにぎりを見た後、ふふふと笑った。


「紫月さまは心根が自由ですね。うらやましいです」

「そうかなあ? 思ったことをしてるだけなんだけど」

「紫月のは自分勝手とも言うけどな」


 碧霧が茶化し気味に突っ込めば、その場にいた全員が笑った。胡麻油のきいた妃那古特製のおにぎりは香ばしくていくつでも食べられる。竹筒には果実茶も入っている。

 五人は雪が降りだしそうな冬空の下、身を寄せ合いながら昼食をお腹に収めた。


 しばらく休憩してから、再び出発することにする。月夜の里からここまで六洞りくどう衆の隊士でさえ半日かかった。再び風に乗ることで、その行程をさらに縮めて先を急ぐ。

 途中、夕方までには到着できそうな場所まで来て、左近が先触れとして式神を御座所おわすところへと飛ばした。


 そして──、日が西へと傾きだした頃、一行は月夜の里の端へと辿り着いた。


 皆の視線の遠く先、彼らの眼下に整備された長方形の町並み──月夜の里が姿を現した。南部に広がる里中は、色とりどりの小さな屋根が集まっていて、ごちゃごちゃとしている。そして北に向かうほど屋根の色が鮮やかな赤土色となり、道も敷地も大きくなる。


「着いた──。月夜の里だ」


 左近が感慨深げに呟いた。彼に抱えられた加野は、安堵と不安をない交ぜにしたような表情で遠くに見える里の風景を見つめている。

 逆に右近は、今着た方角を振り返り、寂しそうに目を細めた。


 碧霧が皆に声をかけた。


「ここからは地を走らせよう。里に着いたら、大通りを突っ切ってそのまま御座所に入る」


 帰ってきたという安堵よりも、緊張感の方が増す。またあの気忙しい日々が始まるのかと思うと、碧霧は正直げんなりした。

 そして、彼は狛犬に股がる紫月に言った。


「吽助を先に帰して紫月は俺の馬で御座所に。人の国の霊獣を堂々と連れて入るのは止めておこう」

「でも、出発の時にも乗ってきてた訳だし今さらじゃない?」

「あの時は限られた者だけだっただろ。しかも六洞衆の者がほとんどで。今度は駄目だ。他の洞家の目にも付く」


 碧霧に説得され、紫月は素直に吽助の背から降りた。彼女が背中を撫でながら「落山に先に帰っていて」と伝えると、狛犬は「がう」と一鳴きしてから落山に向かって去っていった。


 それから碧霧たちは、地に降りて月夜の里へと入る。里中を抜け、大通りをそのまま御座所に向かって駆け抜ける。黒づくめの一団が空馬で突き走る様子を、夕闇の通りを散策している者たちが珍しそうに見送った。


 ややして、桧皮葺ひわだぶきの立派な屋根を構えた大きな門が見えてきた。御座所おわすところの正門である大礼門だ。いつもなら固く閉ざされているそこは、先触れのおかげか大きく開け放たれ、伯子の帰りを待っていた。


 門の両側にそれぞれ三人ずつの門番が立ち並んでいる。彼らは伯子の姿を認めると、ぐっと胸を張って背を伸ばした。他にも文官らしい鬼の姿が何人か見える。


「伯子、ただいま到着である」


 左近が門前に騎乗したまま歩み出で、伯子の到着を仰々しく告げた。


「伯子、よくぞお戻りになられました!」


 文官がうやうやしく頭を下げ、碧霧と紫月を迎え入れた。

 碧霧が鷹揚とした面持ちでそれに応える。そこには沈海平で見せていた生き生きとした若者らしい表情はない。


(葵にとって、ここはそう言う場所なんだ)


 とうとう帰ってきた──。

 思わず紫月は彼の胸元をぎゅっと握った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る