3.奥院の侍女
御座所に到着し、紫月と加野は碧霧や左右の守役と別れ、奥院の一室に通された。
二人でそこで待つことしばし、気忙しい足音が近づいてきた。
「よう帰った、紫月!」
開口一番に言い放ち、千紫が泣き笑いのような顔で入ってきた。後ろには、侍女の雪乃が控えている。
そして、彼女は打掛の裾をうるさそうにたくし上げて膝を着くと、嬉しそうに紫月に抱きついた。
「二人してもう帰ってこないかと思ったぞ」
「ただいま、千紫さま。心配させてごめんなさい」
頼れる見知った顔に出会えて紫月は内心ほっとする。一方、千紫はそんな彼女に頬擦りをしつつ、不満げな顔で訴えた。
「紫月は優しいの。息子など冷たいものじゃ。久々に顔を会わせたと言うのに、ただいま一つで終わってしまった」
「そうなの? それはきっと照れてるのよ」
「照れてなどいるものか。あの顔は、鬱陶しいと言わんばかりじゃ」
ふんっと鼻を鳴らして千紫が吐き捨てた。しかし、本気で怒っている訳ではなく、子供が拗ねているようにも見える。
(後から葵に優しくしろと言ってやらないと)
千紫を宥めつつ紫月は思う。同時に、傍らでどうすればいいか分からない様子でこちらを見ている加野の存在に気がついた。
紫月は、千紫の腕を
「千紫さま、葵から聞いていると思うけど、加野よ。加野、葵のお母さまで千紫さま」
「おお、すまぬ。おまえが加野かえ?」
加野がさっと両手をついて千紫に向かって深々と頭を下げた。
「奥の方さまにおかれましては、お初にお目にかかります。加野と申します」
緊張で声を震わせ加野が挨拶をする。静かで控えめな声ではあるが、決して弱々しくなく芯の強さを感じさせる。千紫が鷹揚な顔で笑った。
「碧霧から聞いておる。なんでも直孝殿の娘であるとか、」
はっと加野が顔を上げた。
「父を──ご存知で?」
「もちろん。何よりも土地を大切になされる御方であった。政変後、いろいろとご苦労をされたようじゃの。何もしてやれず、あいすまなかった」
「いえ、もったいないお言葉にございます」
加野が複雑な面持ちで目を伏せた。そんな彼女に笑いかけつつ、千紫は紫月に顔を向ける。
「紫月、おまえは今から着替えてまいれ。碧霧とともに伯に御目通りせねばならぬ。着るものはこちらで用意してある」
「別に私はこのままでも──」
「ならぬ。伯に失礼のないよう、きっちりと身なりを整えよ。此度は打掛もきちんと羽織れ。雪乃、」
「はい」
部屋の隅に控える侍女が頭を下げる。そして彼女は、「さあ紫月さま、参りましょう」と言って紫月を連れて部屋から出ていった。
紫月がいなくなり、部屋には加野と千紫の二人きりとなった。あらためて千紫が加野をまっすぐ見つめる。
その美しく自信に満ち溢れた眼差しは見つめ返すには眩しすぎ、加野はどうしていいか分からなくなる。すると、千紫が彼女の手を取った。
「加野、おまえが
「ありがとうございます」
「なに、礼には及ばぬ。それより、おまえに一つ頼みたいことがある」
「は、」
戸惑いながら小首を傾げる娘に千紫はふわりと笑った。
一方、別の部屋に案内された紫月は、そこで大勢の侍女に囲まれ着替える羽目になっていた。
「素敵な打掛ね。椿の花が可愛いわ」
「千紫さまが昔お召しになっていたものです。もう若者向きだと言って、最近ではあまり袖を通さなくなってしまって。紫月さまにもきっと似合うと思います。さあ、どうぞ」
雪乃が嬉しそうに説明しつつ紫月に打掛を羽織らせる。しかし、雪乃の説明を聞いて、紫月はちょっと困った顔をした。
「そんな大切な物、借りてもいいの?」
「千紫さまは紫月さまに差し上げると仰せです」
「ええっ、もらえないわ!」
すると、背後でコホンと小さな咳払いがした。なんだと思って紫月が目を向けると、二つ鬼の中年の侍女が気難しい顔でこちらを睨んでいた。
「いかな落山の方さまの姫君とは言え、
「小野木、やめよ。紫月さまは千紫さまにとって娘同然の御方じゃ」
雪乃にたしなめられ、小野木と呼ばれる中年の侍女が言葉を飲み込む。当然ながら、その顔は全く納得していない顔だ。
すぐさま彼女は「しかし、」と雪乃に言い返した。
「奥の方さまが大切にしていた打掛をお下げになるというのに、謝辞の一つもありませぬ」
「私、千紫さまにも雪乃にもとっても感謝してるわ。それに、横柄なつもりもないけれど」
「その馴れ馴れしい言いっぷりが横柄だと申しておるのです。まるで里中の卑しい娘のよう。落山の方さまは、どのように躾られたのか」
「どのようにって言われても──」
こうだとしか言いようがない。さらに言うなら、彼女の言葉からは少なからず深芳に対する不満さえ見え隠れする。
(私自身のことならまだしも、母さまのことまで──)
さすがに紫月はむっと小野木を睨み返した。
「私の不出来を
小野木が顔を真っ赤にして目を見張る。
紫月の隣で雪乃が困った様子でため息をつき、紫月は少し言いすぎたと思った。でも、言われっぱなしは性に合わないし、間違ったことを言ったつもりもないので謝る気もない。
その時、障子戸がすっと開き、落ち着いた声が割って入った。
「そこまでだ」
黒の武装束から、凛々しい小袖袴姿に着替えた碧霧が立っていた。
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