11.出発の朝

 沈海平しずみだいらの朝は、はるか地平の向こうから朝日がゆっくりと昇ってくる。

 今はまだ明け方前、濃い宵闇色に朝明けの光が混じり合い、天と地の際が琥珀色に滲んでいる。


 岩山霞郷がっさんかすみのごう、岩城の一室で紫月はベッドからゆっくりと上半身を起こし、独り大きく息をついた。あらわになった背中から腰にかけての雪肌が、燭台の柔らかな明かりに照らされ赤香色に艶めく。

 碧霧の姿はもうどこにもない。彼はずいぶんと前に鎮守府へと戻っていった。夜明けとともに再び自分を迎えに来る。そろそろこちらも出発の用意をしないといけない。


 まどろみの中、碧霧が自分の頬に口づけを一つ落としベッドからそっと抜け出たことには気がついた。しかし、彼女は眠っているふりをした。

 初めての二人の夜、恥ずかしかったこともある。しかし、自分を置いて鎮守府へ戻る彼を恨めしく思ってしまったからだ。


(変なの。すぐに迎えに来てくれるのに)


 互いの体を重ね合い、碧霧の気に酔った。

 言いようもない一体感と高揚感は、月詞つきこと天地あまつちの気が全身に流れ込んでくる時の感覚と似ていた。

 

 いつも叔母の藤花から感覚を閉じろと注意されていた。心が拐われてしまうからと。

 そんなこと無理、と紫月は思う。 

 狂おしいほどの激しく甘い感情は、果たして自分のものか彼のものか。


「紫月さん、起きてますか?」


 入り口の衝立ついたての向こう、妃那古の遠慮がちな声がした。昨日の宴で自身も遅かっただろうに、どうやら手伝いに来てくれたらしい。


「うん、ありがとう。起きてる。今から準備をするところ」


 幸せな気持ちの奥の奥、ほんのわずかな寂しさを感じるのはなぜだろう。ちくりとした胸の痛みをため息とともに吐き出して、紫月は彼女に答えた。

 昨日の自分とは少し違う。はっきりと彼を欲している自分がいて、さらに欲張りになった自分がいる。

 彼も何か変わっただろうか。自分だけだとしたら、なんだかちょっと不公平な気もする。

 紫月はそんなことを思った。




 それから紫月は身支度を急いで整え、荷物を吽助うんすけの背中にくくりつけた。荷造りはほとんど昨日のうちに済ませておいたので、今朝の準備は造作なかった。


 寒い季節の長旅となるので、今日は毛織りの小袖とたっつけ袴の上下だが、これだけだと味気ないので腰に飾り紐を巻き付けた。上着の外套マントは、襟元に毛皮があしらわれており、ふわふわと温かい。そして最後に深靴ブーツを履いて、帰る準備が整った。


 まだ皆が眠っている中、静かに妃那古と二人で屋上へと向かう。うっすらと星が見える屋上には真比呂や勇比呂、そして宗比呂がすでに待っていた。


 勇比呂が紫月の元へと歩み寄り、懐から深緑色の小さな羽根を一枚取り出す。


「香古が自分で渡すと言っていたんだがな。先日、羽が初めて抜け落ちて。あいつもこれからどんどん大きくなる」


 そして、もらってくれとばかりに紫月に渡した。紫月は戸惑いながらそれを受け取った。


「いいの? 大切な記念の羽根でしょう?」

「いいんだ。その代わり、大きくなった香古をまた見に来てくれ」

「もちろんよ」


 子天狗が起きた時、自分がいなくなっていたら、また泣いてしまうかもしれない。そう思うと、ちょっと心が痛む。でも、また会いに来ることができるのだから、きっと彼女も許してくれる。


 次に妃那古が歩み寄る。


「紫月さん、本当に楽しかったです」

「私もよ、妃那古。また奈原で一緒に買い物しましょ」

「ええ、絶対に!」


 二人はぎゅっと抱き合った。女同士、いろいろな話をいっぱいした。

 昨日の夜は、妃那古の協力なしにはあり得なかった。

 紫月は真比呂をちらりと見てから、こっそり妃那古に「あなたも頑張ってね」と耳打ちする。妃那古が顔を赤らめてはにかんだ。


 徐々に空が明らんできた。

 ややして、北東の方角から数騎の空馬が現れる。その姿はどんどん大きくなり、四騎の空馬が岩城の屋上に降り立った。


「紫月、おまたせ」


 昨日と同じ武装束に黒の外套マントを羽織り、碧霧は黒づくめだ。その後ろには同じく黒づくめ左右の守役と、普段着の佐一がいる。そして、左近の馬には初めて見る旅装束の女性が座っていた。頭には一本の角──、佐一の姉である加野だ。

 いつもと変わらない様子で碧霧が馬から降りて紫月の元へと歩み寄った。


「待った?」

「ううん、私もさっき来たところ」

「ちゃんと──眠れた?」


 はにかみながら碧霧に問われ、紫月は途端に恥ずかしくなる。彼女は小声で「うん、大丈夫」とだけ答えた。やっぱりいつもと変わらない様に見える碧霧が少し憎らしい。


 最後に、真比呂と宗比呂が二人に歩み寄る。


「いろいろ助けられた。本当に心から感謝する。ありがとう」

「こちらこそ紫月が世話になった」

「伯子、またすぐに月夜の里で。なあに、春になれば真比呂も連れて行きましょう」

「宗比呂おう、お待ちしてます」


 それぞれが別れの言葉を告げて再会を約束する。皆がひとしきり言葉を交わした後、左近がやんわりと碧霧を促した。


「碧霧さま、そろそろ」

「分かった。行こう」


 別れを惜しみつつ、碧霧は愛馬の「疾風はやて」に、紫月は狛犬の「吽助」に乗る。

 そして、月夜の鬼と水天狗たちは、力強く目を交わし合い、大きく頷き合った。


 大丈夫、また会える。


「出発だ!」


 碧霧の号令のもと、三騎の空馬と一匹の狛犬は空高く舞い上がった。

 新たな出会いがあり、そして別れがあり。一抹の寂しさを胸に秘め、碧霧たちは月夜に向かって旅立った。

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