10.沈海平、最後の夜

 その日、紫月は一日中荷造りに追われ、気がつけば夕方になっていた。

 当初、深芳に持たされた薬草類は水天狗たちにも好評で、全て霞郷かすみのごうに置いていくことにした。その代わり、三か月の滞在で増えてしまった私物を持って帰らなければならない。

 深芳や侍女の波瑠へのお土産もある。これを全部持って帰るとなると、吽助うんすけが嫌がりそうだと紫月は思った。


 ほどなくして二階の食堂から美味しそうな食べ物の匂いが漂ってきた。これは味噌漬肉を焼いている匂いだ。甘辛い醤油と出汁だしの匂いはきっと煮物か何か。


「紫月さん、帰る準備はできました?」


 ひょっこり妃那古が入り口の衝立ついたてから顔を出す。その後ろにはふてくされ顔の香古がいる。

 紫月が「おいで」としゃがんで両手を広げると、香古は少し躊躇ためらってから、紫月に駆け寄り抱きついた。


「香古、ごめんね。でも、また遊びに来るから」

「約束!」


 香古がぎゅうっと紫月にしがみつく。紫月は彼女の深緑色の髪を何度も優しく撫でた。

 ここ数日間、香古はずっと紫月から逃げていた。でも、そんなことをしていても紫月は明日には行ってしまう。彼女なりに気持ちを整理して仲直りをしに来てくれたのだ。

 ややして、妃那古がやんわりと香古に声をかける。


「香古、紫月さんはこれから身支度をするから食堂を手伝ってきてくれる?」

「うん!」


 紫月と仲直りできてほっとしたのか、香古はすっきりとした笑顔を浮かべた。すっかり彼女に懐いた吽助が、遊ぼうとばかりに香古の手に鼻を擦り寄せてくる。

 香古は、「今からお手伝いをするのよ」と得意気に翼をぱたぱたさせながら、狛犬を連れて部屋を出ていった。


 子天狗を見送って、今度は妃那古が「さあ、」と笑う。


「今夜は可愛く着飾らないと。お手伝いします」

「いつも通りでいいのに」

「駄目ですって。今日は勝負服ですよ」


 遠慮する紫月を強引に鏡台の前に座らせ、妃那古が香油を取り出した。それを紫月の豊かな黒髪に馴染ませると、ゆっくり丁寧にかしていく。

 ほのかに漂う姫小松の香りに、朝からなんとなく緊張していた紫月の気持ちも自然とほころんだ。


 今夜、碧霧と一夜を共にする。部屋に置いた小さなメッセージに、彼はちゃんと気づいてくれるだろうか。

 この三か月、彼のことを更に好きになったと思う。もっと一緒にいたいと思うし、もっと触れていたいとも思う。以前より少し欲張りになった自分がいる。


 明日の朝は、どんな自分になっているだろう? そんなことを紫月は思う。

 この膨らむ思いが少しは控え目になるだろうか?

 彼女は高鳴る気持ちを落ち着かせるべく、そっと両手を胸の上に置いた。




 日の入り前に碧霧が佐一とともにやって来た。今日は、左右の守役は鎮守府で留守番である。加野を一人きりにしないことへの配慮だ。

 妃那古に部屋で待つように言われ、紫月はじっと彼が迎えに来てくれるのを待つ。髪に付けた大ぶりの白い花飾りは、二か月ほど前に奈原の里で買ったものだ。


 そして今日、着ているのは──。


「紫月、来たよ」


 碧霧がいつもと変わらない様子で部屋に入ってきた。そんな彼の格好を見て、紫月はあ然とする。彼は沈海平にやって来た時と同じ黒の武装束に身を包んでいて、いつでも出発できる格好だ。


「最後の宴の夜に、なんでそんな殺伐とした武装束──」


 一方的に頑張っている自分が無性に恥ずかしくなり、だからと言って、逃げ出すわけにもいかず、紫月はぷうっと頬を膨らませて彼を睨んだ。

 方や、碧霧は綺麗に着飾った紫月を見た途端、大きく目を見開く。


 艶やかな漆黒の髪にふわりと咲く大輪の花飾り。そして着ている物はというと、夏に着ていた背中が大胆に開いた服だ。そのままだと時期的に寒いので、そこに上羽織をはおっている。

 胸元の合わせがいつもより低く開いているのは慌てて着たからか、それともわざと?


伯太はくたいの儀の時でさえ、打掛も羽織らず小袖姿だったのに……」


 そう言って、碧霧は目尻をこれでもかと下げた。

 紫月がなんとも言えない困った顔で、そっぽを向く。


「妃那古に着せられて仕方なくよっ。それ以上でもそれ以下でもないし!」

「ええー、本当に──」


 と、碧霧が部屋ので目を止める。紫月の部屋はすっきり片付けられ、朝には出ていくだけの状態となっている。でも、一つだけそうじゃない所がある。

 彼はごくりと息を飲み込んだ後、信じられないといった表情で紫月を見た。


「今日……泊まっていっていいの?」


 紫月は思わずたじろいだ。まさか、本当に気づいてくれるなんて。彼女はおろおろと彼に尋ねた。


「いきなりなんで……」

「だって、」


 碧霧が戸惑いがちにベッドに目をやる。そしてぼそりと呟く。


「枕が二つある。いつも一つしかなかった。あれ、俺の分?」

「本当に──、余計なことばかり覚えてるんだからっ」


 とにもかくにも恥ずかしさが勝ってしまい、紫月は顔を真っ赤にして碧霧を睨んだ。




 香古の元気な歌声で始まった宴は大変な騒ぎになった。

 いつもこめかみを押さえてばかりの真比呂は驚くほど陽気だし、強気な勇比呂はめそめそ泣き出して香古に慰められていた。そして、年長の宗比呂は碧霧を相手に沈海平の歴史を延々と語り始め、辛抱強く聞き続ける伯子があくびを噛み締めたところで、見かねた天狗たちに止められていた。


 宵も深くなった頃、碧霧は紫月を誘って二人でこっそり食堂を抜け出した。それを真比呂と妃那古が優しく見送る。


 紫月の部屋に戻ると、燭台の明かりが柔らかに灯るベッドに二人は座った。いつもの通り紫月は碧霧の膝の上だ。


「楽しかったわね。今夜の宴もだけど、それだけじゃなく、沈海平での毎日が」

「そうだな。思った以上に楽しかった。月夜の鬼以外に信頼できる仲間もできた」

「あっという間の三か月だったわね」


 感慨深げに紫月が言うと、碧霧が物言いたげに苦笑した。


「うん。でも……、まあ、ある意味長い三か月だったかな」

「?」

「だって、ほら」


 言って彼はそのまま紫月の胸元に口づけを落とす。

 正直、宵臥よいぶしの姫をモノにするのに三か月もかかるなんて思いもしなかった。

 碧霧は唇を離すと、そろりと顔を上げて真っ直ぐに彼女を見つめた。


「月夜に帰ったら、紫月を妻とすることを父上と母上に報告する。紫月、なってくれる?」


 はにかみながら紫月が嬉しそうに俯く。ややして、「私でいいの?」と返ってきた。


「もちろん。紫月以外、考えられない。紫月は?」

「……私も、葵と一緒にいたい」


 お互い口に出すと、途端に恥ずかしくなって、どちらからともなく笑いが漏れた。互いの額を寄せ合えば、やっぱり笑いが込み上げてきた。

 両手を絡め、唇を静かに大切に重ねる。

 幸せな気持ちとたかぶる思いが、ゆっくりと混じり合う。


 そして──、紫月の首の後ろの結び目を碧霧は優しくほどいた。


 沈海平での最後の夜が、静かに更けていった。

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