9.お礼の焼菓子

 とうとう明日、沈海平しずみだいらを発つこととなった。

 今日は、水天狗による別れの宴が催される日である。碧霧はぎりぎりまで鎮守府で仕事をして、夕暮れ前に霞郷かすみのごうへ出かけていった。


 左右の守役は留守番である。二人も招待されていたが辞退したのだ。ここに加野を残して行くことに左近が難色を示し、それに倣う形で右近も残ることにした。

 しかし、その右近も夕暮れには「ちょっと奈原へ」とふらりと出かけてしまい、結局は左近と加野の二人きりとなった。


 沈海平で最後の夜、鎮守府本殿の離れでは左近と加野が静かな夕餉ゆうげを取っていた。いつもなら食事は別だが、二人きりなので今日ばかりは特別だ。そしてそれも今日で最後だ。

 明日、加野も一緒に月夜の里へ行く。伯子が内密に奥の方に相談したところ、まずは次洞じとう家に引き取られることになった。


「奥の方の声かかりで次洞家に入るから心配はいらないが、何か困ったことがあれば、遠慮なく相談してくれ」

「はい」

「おまえは何かと耐えすぎるから、本当に言うんだぞ。俺に言いにくければ碧霧さまでも右近でも誰でもいい」

「はい、ありがとうございます」


 加野がふわりと笑った。当初の感情の抜け落ちた顔は最近ではすっかり見られなくなった。

 ただの自己満足なだけかもしれないが──。左近は、加野の今後を思うと心が軽くなった。




 一方の右近は、奈原の大通りを所在なく歩いていた。

 夜になっても奈原の里は賑やかだ。通りに沿って提灯ちょうちんがぶら下がり、柔らかな光が店先を照らしている。昼のような騒がしさはないが、夜のひとときを楽しむ声がまるでさざ波のようにあちこちから聞こえてくる。


 途中、「綺麗な兄さん!」と呼び止められ、帰りの土産にどうかと焼菓子を買わされた。干した果物を小麦粉の生地に混ぜて甘く焼き上げたものだ。


 再びぶらぶらと歩いて、ふと立ち止まる。右近の口から自然と大きなため息が漏れた。


 ここに来ればなんとかなると思っていた自分が浅はかだった。

 いつも会えていた訳ではない。でも、いつも会っていたように感じていた。会いたいと思った時にこんなにも見つからないなんて。


「そもそも、自分から探したことなんてなかったな」


 右近は誰に言うともなく独り呟く。二つ目のため息が漏れた。

 その時、


「よお、今日は一人か?」


 探している者とは全然違う不快な声に彼女は振り返った。そこに、いつぞやのゴロツキが立っていた。

 落ちぶれた一つ鬼と水天狗とその他もろもろ──、どうでもいい輩にはどうして会ってしまうのか。


 彼女は、口の端に皮肉げな笑みを浮かべてゴロツキたちに言った。


「どうした。また痛い目に遭わされたいか。私は今、機嫌が悪い」

「な、なにを──っ、この前は油断したが今度はそうはいかねえ!!」


 ゴロツキたちがぐるりと右近を取り囲み懐から刃物を取り出す。すぐにかかって来ないのは、前回のことがあるからか。存外にそこそこの学習能力はあるらしい。


 今度は腕の一本でも切り落とせば大人しくなるかな。

 右近は腰を落とすと、鯉口を切った。


 そしてまさに相手がこちらに襲いかかって来ようとした時、


「やめておけ。おまえらが何回やろうが敵う相手じゃねえぞ」


 荒っぽいが鷹揚な声が通りに響く。

 刹那、右近が探していた赤髪の男が、彼女を庇うようにして両者の間に割って入った。


「おう、おまえら。腕の一本ぐらいは覚悟してんだろうなあ?」


 唐紅からくれないの小袖に毛皮で縁取られた陣羽織。相変わらず派手な格好をした魁はにやりと口角を上げる。ゴロツキたちは途端に冷静になったのか、怯んだ様子を見せた後、「ちっ」と舌打ちしながら不機嫌そうに立ち去っていった。


 魁は「ふんっ」と鼻を鳴らして、ゴロツキたちの後ろ姿を見送る。

 そして、ようやく二人きりになったところで彼がくるりと右近に向き直った。


「訳もなく刃傷沙汰なんざ、さすがのあんたでも処分ものだぞ」

「分かっている。本気じゃない」


 とっさに言い返し、右近はふいっと顔を背ける。なかなか会えなかった腹立たしさと、やっと会えた嬉しさと。その二つがない交ぜになった気持ちで、どんな顔をしていいのか分からなかった。

 ふと、手に持ったままの焼菓子を思い出し、魁に不躾に押しつける。


「これ。貸しを作ったままじゃ帰れないから」

「……」


 無言のまま受け取った魁は、ややして、その意味を理解したらしく片眉を上げた。


「月夜に帰るのか? いつ?」

「明日」


 そう答えれば、魁が驚いた顔をした。それから困惑気味に目をそらす。彼はひとしきり思案してから、次に思いきったように顔を上げた。


「右近──、出し抜けに申し訳ないが伯子に会わせて欲しい」

「え?」

「伯子と話を、商談をしたいと思っている。いつか機会がないかと思っていた。ほんのわずかな時間でいい。顔をつないでもらいたい」


 突然に発せられた魁の頼み事に右近は言葉を失う。

 伯子の守役という立場上、似たような口利きを頼まれることは嫌と言うほどある。伯子とお近づきになりたい者は山の数ほどいる訳で、今さら驚くほどのことでもない。

 しかし、彼の言葉を飲み下すうちに怒りが腹の底から湧いてきた。

 彼女は低く唸った。


「私に近づいたのはそのためか」

「……それもある。でも、それだけじゃねえ」

「ふざけるなっ」


 ぎりっと右近は魁を睨んだ。

 いったい自分は何を期待していたのだろう。こんな素性も知れない紅一族の鬼に。


「おまえなんかに会わせるわけないだろう。私を懐柔したつもりか? 馬鹿にするな」

「だから、それだけじゃねえって──」

「それ以外にこんな魅力の欠片もない女に何の用がある?」


 怒りのままに右近が言葉をぶつけると、魁がふと口をつぐんだ。そして彼は、不快をあらわにした目で右近を鋭く見返した。


「魅力の欠片もねえってか。卑屈な女は好きじゃねえ。あんたの言う魅力ってのが何か知らねえが、そんな風に言うのなら、魅力があるようになればいい。でも、あんたは自分で選んでその格好をして、伯子の守役をやってんだろ? 違うのか、六洞りくどうの姫」

「……姫じゃない」

「姫君さ。俺から見たらどんな格好をしていようがな。綺麗で穢れのない真っさらなお姫さまだ」


 褒められているのか、けなされているのか。それともこれは説教か。

 いずれにせよ、こちらの伝えたいことは伝えたし、あちらの頼みは聞き届けられない。だとしたら、これ以上の長居は無用だ。


「二度と……私に話しかけるな。これでさよならだ」


 やっとのことそれだけ言って、右近は魁に背を向けた。そして彼女は足早にその場を後にした。

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