8.面倒な乙女

 与平とともに馬に揺られることしばし、紫月は粗末な屋敷の前に来た。古びた小さな門は、屋根もなく両側に柱が立っているだけのもので、その奥に平屋の粗末な家屋が見える。


「こちらになります。見てのとおりのあばら屋ですが」

「ここが与平さんの家……」


 勘定方筆頭であり六洞りくどう衆三番隊長を兼務している男の居所とは言いがたい。これなら家元たちの方がよほど良い暮らしをしている。

 そんな紫月の気持ちを察したように与平が笑った。


「儂の家は昔からここなのです。身分、立場が変わろうと、別の場所に移り住むつもりはありません」

「ううん。与平さんらしい家だと思うわ。母さまは、いつもここに通っていたわけね」


 そこまで言って、紫月はハッとする。与平がわざわざ自宅に自分を連れてきた理由──。


「まさか、の?」


 思わずそう尋ねると、与平は「たぶん」と苦笑した。


「紫月さまが留守なのをいいことに毎日のように。今日もおそらく玄関で待ち構えているかと」

「あー……」


 そりゃ、迷惑極まりない。でも、ここで母親に会えるなんてちょっと嬉しい。

 紫月は急いで馬から飛び降りると、玄関に駆け寄り、その滑りの悪い引き戸を勢いよく開けた。刹那、


「おかえりなさいませ。ご主人さま」


 緩くうねった栗色の髪をはらはらとこぼし、優美に頭を下げる深芳の姿が現れた。

 この出迎え方は、あれだ。人の国で流行はやっているやつ。しかも、


「──って、それっ! 私が沈海平しずみだいらから持って帰ってきた夏のドレス!! なんで勝手に着てるのよ?!」

「おや、紫月」


 深芳は、左右の前身頃から延びた生地を首の後ろで結んだだけの背中が大胆に開いた服を着ていた。沈海平から紫月が持って帰ってきた夏服である。

 肩から背中にかけて滑らかな雪肌を惜しみなくさらし、前の合わせはやや低め、豊かな胸の谷間とふくらみがはっきりと見てとれる。

 正直、かなり挑発的──もとい、艶っぽい。


(さすが母さま。初めての服のはずなのに上級者の着こなしだわ……)


 呆れる娘の前で、母親は悪びれる様子もなく首を傾げた。


「吽助の荷を解いたら出てきての。私への土産かと思い、さっそく着てみた。そんなことより紫月、今宵は奥院に泊まらなかったのかえ?」


 直後、遅れてやってきた与平が深芳の姿を見て、「うぉぁっ」と変な声を出す。さすがにこの姿は予想外だったらしい。そして彼は、紫月から素早く外套マントを引きはがし、それで深芳をぐるりとくるんだ。


「今日はまた何をしておいでです?」


 怒りをはらんだ声で与平が尋ねると、深芳はもじもじと床に「の」の字を書いた。


「この格好で出迎えたら与平が喜ぶと思うての」

「いやいや、母さま」

「ないですから」


 紫月と与平、二人は同時に手を振って否定する。深芳が「なぬっ?!」と体を震わせ二人を睨んだ。


「寒い中わざわざ着て来たというのに、二人して駄目出しするでない!」

「や、だって、」

「駄目でしょう?」


 与平がげんなりとした顔でため息をつく。その様子を見て、紫月は心の底から申し訳なく思う。深芳だけが一人ぷりぷりと怒っていて、そのうち紫月はおかしくなって吹き出してしまった。


 やっと帰ってきた──。紫月はあらためて深芳に「ただいま」を言った。


「聞いて、母さま。今日は御座所おわすところで酷い目にあったわ」

「あそこはそういう場所じゃ。今さら言うほどのことか。何があったか母に話してみよ」


 深芳がふわりと笑い、彼女らしい自信に満ちあふれた顔で紫月を迎え入れる。与平が家に上がるようにと紫月を促した。


「もしよければ、夕餉ゆうげを用意いたします。こちらで食べていかれては?」

「いいの? 食べたい! お腹がペコペコ」


 子供のように弾んだ声で答え、彼女は与平の家に上がった。

 まるで本当の家族みたい──。落山の屋敷にはなかった一家団らんの風景がそこにあった。




 その後、紫月は深芳や与平とともに夕食を楽しんだ。沈海平のことを一通り報告し、話はそのまま今日の御座所の出来事へ。

 小野木という侍女に口うるさく注意されたこと、鬼伯との謁見でひどく侮辱されたこと、そこで碧霧が大勢の姫君と関係を持っていたと教えられたこと、そしてそれが原因で碧霧と喧嘩をして帰ってきたこと──、紫月は勢いのままに二人に全てぶちまけた。


「酷いと思わない?!」


 同意を求めて紫月が深芳と与平に訴えると、二人は困った顔を見合わせた。深芳はいつまでも外套マントという訳にもいかず、紫月が着て帰ってきた千紫の打掛を羽織っている。

 食後のお茶を一口飲んで、深芳がことりと湯呑ゆのみを膳に置いた。


「まず一つ、小野木とはちゃんと話せるようになれ。うるさいし頭は固いが、信頼できる者じゃ。そして二つ目、相手を蔑む旺知の物言いは昔からじゃ。ああいう男ゆえ流してしまえ。そして三つ目、」


 母親は、ここが肝心とばかりに諭し続ける。


「碧霧さまもそれ相応の年じゃ。あの容姿で地位もあれば、黙っていても女が腰を振って寄ってこよう。何もない方がそもそもおかしい。それとも何か、おまえは出会うかどうかも分からぬ相手にみさおを立てろとでも言うのかえ?」

「そういう訳じゃあ……」

「では、どういう訳じゃ。母など相思相愛で男に抱かれたことなど一度もないわ。おまえの基準で言えば、この母はどうなる?」

「や、そんなあからさまな告白を娘にされても……」

 

 たじたじと戸惑いつつ、二人はまだそういう関係にないのかと紫月は思う。ちらりと与平を見れば、彼は誤魔化すように肩をすくめた。

 そして与平は、すぐさま深芳の言葉を引き継いで話題を元に戻した。


「まあ、紫月さまのお気持ちは分かりますが……。先程もお伝えした通り、はた目で見ても遊んでいらっしゃるのは明白だった方が、紫月さまに対しては違います。そこは誠実になられたのだと思いますよ。碧霧さまが本気だとおっしゃってくれたのであれば、それを信じて差し上げればよろしいのでは?」

「私の気持ちが収まらないの!」


 紫月がすかさず言い返すと、今度は深芳が呆れた様子でため息をついた。


「少しは色づいて戻ってくるかと思えば、何十年も乙女だった女はなんと面倒なことか。耳で聞いただけの過去の出来事をぐだぐだと──、も知らぬ小娘はこれだから困る」

「きつめの一つって? 何それ?」

「言わぬ」


 深芳はうふふと笑いながら両手で口元を押さえ体をのけぞらせた。


 なんだかよく分からないが母親が幸せ絶頂であることだけはめちゃくちゃ分かる。

 怒っているのは自分だけ。紫月は少なからずイラッとして、会話を打ち切った。

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