3)七洞の姫と宵臥の姫
1.七洞家
七洞家の当主、
三百年前の月夜の変の後、千紫の推挙で七洞に抜擢された時には、周囲も自身も驚いた。利久は平凡を絵に書いたような無害な男で、他の洞家当主と比べても秀でるものが何もなかったからだ。
任されたのは
これらの仕事をこなすため、下男・下女である御用使いたちをあれこれ手配し動かすのが利久のもっぱらの役目であり、必要な時は自らも率先して動く。「どちらが下男か分からんわい」と彼を馬鹿にする言葉は、本人はそんなに気にしていない。
なぜなら、利久にとって
そんな彼が今日はいつにも増してあたふたしていた。しかし、彼があたふたしているのはいつものことなので、気に止める者は誰もいない。たまたますれ違った文官たちが、彼の姿を横目で見ながら鼻で笑った。
「小間使いの利久さまは今日も慌ただしいですな」
「なんせ御座所は広い。どれだけ掃除をしても終わらんのでしょう」
「ははは、本当に! そう言えば、愛娘である姫君は『私は母親のようにはならない』が口癖だそうですぞ」
「それはそうでしょうとも。洞家でありながら、くる日もくる日も御座所の掃除に明け暮れる男になど誰が嫁ぎたいと思うものか」
文官たちは慌てた様子で走り去っていく七洞家当主の後ろ姿を見送った。
「
七洞家の屋敷に利久の声が響いた。父親が日中のこんな明るい時間に戻ってくるなんて珍しい。七洞家の姫は、驚いた様子で顔を上げた。
ちょうど歌の稽古の最中である。師匠は、歌が上手いという評判の
案の定、無粋な利久の乱入に琴古主は眉をひそめ、妻の佐和はぎろりと夫を睨んだ。
「利久殿、今は美玲の大切なお稽古ごとでございます。お話なら後にしてくださいませ」
「そ、そそそそんな訳にはいかん。大切な話なのだ。稽古はまた、日を改めれば良かろう」
どもりながら慌てる様は、およそ洞家の当主とは思えない。佐和はうんざりした様子でため息をつくと、琴古主に「今日はここまでにて」と終了を告げた。
気を悪くした琴古主がぷりぷり怒りながら退出する。部屋に親子三人になったところで、利久は「ふうっ」と大きく息をついて額の汗を拭った。
「お父さま、日中にお戻りになるなど滅多とないこと。どうなされたのです?」
気の強そうな瞳を瞬かせ、姫君が父親に尋ねる。その隣では、妻が「どうせつまらないことに決まっている」といった顔をしていた。
利久はごくりと生唾を飲んで、娘に膝ひとつ詰め寄った。
「美玲、落ち着いて聞いて欲しい」
「はい」
「今朝、奥の方からお呼び出しがあり、落山の姫君の教育係に美玲をとお願いされた」
「は、」
にわかに父親の言葉が理解できずに、美玲は思わず眉根を寄せた。刹那、佐和が「やった!」と歓喜の声を上げた。
「これは、またとない好機じゃ。うまくいけば伯子のお側近くに──
「でもお母さま、奥の方さまは教育係にとおっしゃっているのよ」
「教育係に洞家の姫をあてるなど聞いたことがない。おそらくこれは、伯子の側へ上がれという意味じゃ。美玲を傷物にされたと苦情を申し出たことへの謝罪かもしれぬ。おまえさまにしては上出来じゃ!」
喜ぶ妻の前で利久は複雑な顔をする。そして気遣うように美玲を見た。
「儂は、伯子の対応が不誠実に感じたから……苦言を申したまでだ。今回のこともすぐにお断りしたのだが、奥の方の強い意向があり、話を一旦持ち帰るということで誤魔化してきた」
「断ったとは──! 何を阿呆なことを言っておいでか、」
佐和がぴしゃりと夫を叱咤する。
「女のつまみ食いなど良くあること。聞けば、落山の姫君は伯太の儀で伯子に平手打ちを食らわし、宵臥のお務めを逃げ出したと言うではありませぬか。
「奥の方は、そのように甘いお方ではないよ」
「いいえ。あの高慢ちきな落山の方の手前、奥の方もわがままな姫を切って捨てることができぬのです。本当のところは、うちの美玲を伯子の妻に所望しているに違いありませぬ。これは──昇殿用の打掛を新調せねば!」
佐和は利久の言葉など一切耳に入っていないようで上ずった声でまくし立てた。利久は困った顔で妻を一瞥し、それから美玲に目を向ける。
「美玲はどうしたい? 儂は美玲が嫌なら断るつもりだ。七洞を返上してもいい」
「利久殿、洞家を返上なさるなど正気でございますか。今の贅沢な生活ができなくなるではないですか!」
「お母さま、落ち着いて」
美玲が、可愛らしいはきはきとした声で母親をなだめた。そして父親に向かってにこりと笑う。
「お話、お受けいたします」
「美玲……本当に? それでいいのか?」
「ええ。私も、会ってみとうございます。宵臥を逃げ出し、鬼伯に口答えをし、挙げ句、伯子と大喧嘩をする落山の姫なる御方に」
言って七洞の姫は、気の強そうな瞳をすうっと細めた。
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